
信長・秀吉・家康から厚い信頼・土佐藩初代藩主 山内一豊~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
2025.04.08
RKCラジオで毎週火曜日午後5:15から放送中の「歴史のなかの土佐人たち」
高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。
ぐるぐるこうちでは、放送には入りきらずカットした部分も含めて紹介します!
高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。
ぐるぐるこうちでは、放送には入りきらずカットした部分も含めて紹介します!
『高知城を築城した土佐藩初代藩主・一豊公』
今回ご紹介するのは「山内一豊」

土佐藩の初代藩主・山内一豊(かつとよ)は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下人3人の信頼を得て、貧しい一介の侍から土佐20万石の大名にまで上り詰めた戦国時代を代表する武将の1人です。
天文(てんぶん)14年、西暦1545年に尾張国(おわりのくに)、現在の愛知県で黒田城の城主・山内盛豊(もりとよ)の子として誕生しました。一般的には「かずとよ」の呼び名で知られていますが、近年の研究では「かつとよ」という呼び名だったのではないかとされています。
父の盛豊は尾張国の北部を治めていた織田信安(のぶやす)の家老でしたが、尾張国南部を治めていた織田信長と信安が対立。山内家は内紛に巻き込まれ、一豊は兄、父を相次いで亡くし15歳で母や幼い弟、妹らと共に諸国を放浪することとなります。
何人かの武将に仕えた後、織田信長に仕えることになります。信長は山内家の宿敵にあたる存在でしたが、先を読む力に優れていた一豊は当時勢いを増していた信長の元で着実に功績をあげていきます。
信長が越前、現在の福井県で勢力を誇っていた朝倉氏を攻め込んだ際には、その活躍ぶりが認められて400石の領土を与えられました。この戦いでは敵側の重臣の放った矢が一豊の顔面に突き刺さる重症を負いながらも、果敢に挑みその重臣を討ち取りました。傷は左の頬を貫通し右の奥歯の骨にまで達したそうです。
戦いの後、一豊は家臣に「草履のまま顔を踏みつけて矢を引き抜いてくれ」と頼んだと言われていますが、この矢を引き抜いた家臣が父親の代から山内家に仕えていた「五藤」という人物で、子孫は幕末まで土佐藩の家老を代々つとめています。
一豊の顔を踏みつけた草履は五藤家の祖先を祀っている安芸市の藤崎神社の御神体として崇められており、鏃(やじり)は安芸市立歴史民俗資料館で大切に保管されています。

土佐藩の初代藩主・山内一豊(かつとよ)は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という天下人3人の信頼を得て、貧しい一介の侍から土佐20万石の大名にまで上り詰めた戦国時代を代表する武将の1人です。
天文(てんぶん)14年、西暦1545年に尾張国(おわりのくに)、現在の愛知県で黒田城の城主・山内盛豊(もりとよ)の子として誕生しました。一般的には「かずとよ」の呼び名で知られていますが、近年の研究では「かつとよ」という呼び名だったのではないかとされています。
父の盛豊は尾張国の北部を治めていた織田信安(のぶやす)の家老でしたが、尾張国南部を治めていた織田信長と信安が対立。山内家は内紛に巻き込まれ、一豊は兄、父を相次いで亡くし15歳で母や幼い弟、妹らと共に諸国を放浪することとなります。
何人かの武将に仕えた後、織田信長に仕えることになります。信長は山内家の宿敵にあたる存在でしたが、先を読む力に優れていた一豊は当時勢いを増していた信長の元で着実に功績をあげていきます。
信長が越前、現在の福井県で勢力を誇っていた朝倉氏を攻め込んだ際には、その活躍ぶりが認められて400石の領土を与えられました。この戦いでは敵側の重臣の放った矢が一豊の顔面に突き刺さる重症を負いながらも、果敢に挑みその重臣を討ち取りました。傷は左の頬を貫通し右の奥歯の骨にまで達したそうです。
戦いの後、一豊は家臣に「草履のまま顔を踏みつけて矢を引き抜いてくれ」と頼んだと言われていますが、この矢を引き抜いた家臣が父親の代から山内家に仕えていた「五藤」という人物で、子孫は幕末まで土佐藩の家老を代々つとめています。
一豊の顔を踏みつけた草履は五藤家の祖先を祀っている安芸市の藤崎神社の御神体として崇められており、鏃(やじり)は安芸市立歴史民俗資料館で大切に保管されています。
『土佐のカツオのタタキのルーツは一豊!?』
壮絶な戦いぶりを聞くと一豊は武闘派な人物だったように感じますが、口調は穏やかで謙虚な性格、口数も少なかった人だったそうです。
しかし、いざ戦場へ出ると一変!多弁になり大声で家臣たちを叱咤、口調も明瞭になったと伝えられています。それほど普段は 物静かな人だったんでしょうね。
一豊は時代を読む判断能力があっただけでなく、主君への気配り・心配りに優れていたとされ、信長、秀吉、家康から厚い信頼を得たことで出世の糸口をつかみました。
野営をしていたある日のこと、家臣から焼き大根を進められた一豊は「焼き大根を食べると 口が臭くなって、秀吉公のそばへ行けなくなるので遠慮する」と断ったそうです。
そして大出世を遂げた一豊の運命を大きく変えたのが、関ヶ原の戦いの直前に行われたある会議でした。それは、石田三成が挙兵した時に徳川家康が武将たちを集めた会議で、西の石田三成に付くか東の自分に付くか決めて欲しい、というものでした。
一豊は家康に付くと発言した後、驚きの提案をします。
「家康様に私の城と兵糧を全てお渡しします」
家康への絶対的な忠誠心を示すこの発言を聞いた他の武将も次々と自らの城を明け渡すと申し出ます。
その結果、家康は関ヶ原まで一気に進軍し、天下分け目の戦いに勝利することができました。
ただ一豊はこの関ヶ原の戦いで特に功績をあげていないにも関らず、 報奨として土佐20万石を与えられています。わずか5万石の小大名へのこの報酬に家康の側近が口を挟もうとすると家康は「会議で発せられた一豊の一言で関ヶ原の戦いは勝利できた」と語ったそうです。
一豊は57歳で土佐藩の初代藩主となり、高知城の築城を開始。城下町の治水にも取り組み土佐の発展の礎を築き、4年後の61歳で激動の人生に幕を下ろしました。
一豊の出世を語る上で欠かせないのが妻の「見性院」。一般的には「千代」の名前で知られています。
側室をおくことが珍しくなかった戦国の時代で、一豊は千代以外に妻をもうけず、生涯二人三脚で山内家を盛り立てました。
最後に、高知の郷土料理にまつわるにエピソードを一つ。一豊が藩主になった当時、土佐の領民はカツオを生で食べていた為、食中毒が度々起こっていました。そこで一豊はカツオの刺身を食べることを禁止する御触れを出します。しかし、刺身で食べたい領民たちは表面だけさっと焼いて食べ始めたものが「カツオのタタキ」のルーツとなった、という説が残されています。
今日は山内一豊を紹介しました。
📝執筆担当のあとがき📝
日本を代表する偉人「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」の3人に仕えそれぞれから厚い信頼を得た山内一豊。全く性格も違いそうな3人に信頼されるのはやはり一豊の人間力でしょうか。なかなか気配りのできる人物だったようです。
土佐24万石というフレーズでも知られていますが、実は関ヶ原の戦いで大きな功績は残していなかったというのも意外でした!
また妻の見性院(千代の名前で知られています)とも仲睦まじかったことでも知られています。妻がへそくりで購入した名馬が出世の糸口になったというエピソードも。

(高知城にある銅像 馬は愛馬の太田黒)
高知県の観光スポット「高知城」を築城した人物としても知られています。
1727年、城下町の大火で追手門を残し天守はじめほとんどの建物を焼失しましたが、1749年に天守を再建。その姿を今に伝えています。

江戸時代以前に建造された天守が残る現存12天守の一つで、本丸の建造物が全て残るお城は高知城だけ。また天守と本丸御殿が現存する唯一のお城なんです!すごい。
追手門と天守がきれいに一枚の写真におさまる珍しいお城でもあります。
この角度が姿形がかっこよくて個人的に好きです!

今回原稿の監修の協力をしてくれた「高知県立高知城歴史博物館」では、一豊をはじめ、山内家について色々と学ぶことができます。場所も高知城のすぐ隣。
ぜひ立ち寄ってみてくださいね。
RKCのラジオ番組「歴史のなかの土佐人たち」の特設サイトもぜひご覧ください🔻
しかし、いざ戦場へ出ると一変!多弁になり大声で家臣たちを叱咤、口調も明瞭になったと伝えられています。それほど普段は 物静かな人だったんでしょうね。
一豊は時代を読む判断能力があっただけでなく、主君への気配り・心配りに優れていたとされ、信長、秀吉、家康から厚い信頼を得たことで出世の糸口をつかみました。
野営をしていたある日のこと、家臣から焼き大根を進められた一豊は「焼き大根を食べると 口が臭くなって、秀吉公のそばへ行けなくなるので遠慮する」と断ったそうです。
そして大出世を遂げた一豊の運命を大きく変えたのが、関ヶ原の戦いの直前に行われたある会議でした。それは、石田三成が挙兵した時に徳川家康が武将たちを集めた会議で、西の石田三成に付くか東の自分に付くか決めて欲しい、というものでした。
一豊は家康に付くと発言した後、驚きの提案をします。
「家康様に私の城と兵糧を全てお渡しします」
家康への絶対的な忠誠心を示すこの発言を聞いた他の武将も次々と自らの城を明け渡すと申し出ます。
その結果、家康は関ヶ原まで一気に進軍し、天下分け目の戦いに勝利することができました。
ただ一豊はこの関ヶ原の戦いで特に功績をあげていないにも関らず、 報奨として土佐20万石を与えられています。わずか5万石の小大名へのこの報酬に家康の側近が口を挟もうとすると家康は「会議で発せられた一豊の一言で関ヶ原の戦いは勝利できた」と語ったそうです。
一豊は57歳で土佐藩の初代藩主となり、高知城の築城を開始。城下町の治水にも取り組み土佐の発展の礎を築き、4年後の61歳で激動の人生に幕を下ろしました。
一豊の出世を語る上で欠かせないのが妻の「見性院」。一般的には「千代」の名前で知られています。
側室をおくことが珍しくなかった戦国の時代で、一豊は千代以外に妻をもうけず、生涯二人三脚で山内家を盛り立てました。
最後に、高知の郷土料理にまつわるにエピソードを一つ。一豊が藩主になった当時、土佐の領民はカツオを生で食べていた為、食中毒が度々起こっていました。そこで一豊はカツオの刺身を食べることを禁止する御触れを出します。しかし、刺身で食べたい領民たちは表面だけさっと焼いて食べ始めたものが「カツオのタタキ」のルーツとなった、という説が残されています。
今日は山内一豊を紹介しました。
📝執筆担当のあとがき📝
日本を代表する偉人「織田信長・豊臣秀吉・徳川家康」の3人に仕えそれぞれから厚い信頼を得た山内一豊。全く性格も違いそうな3人に信頼されるのはやはり一豊の人間力でしょうか。なかなか気配りのできる人物だったようです。
土佐24万石というフレーズでも知られていますが、実は関ヶ原の戦いで大きな功績は残していなかったというのも意外でした!
また妻の見性院(千代の名前で知られています)とも仲睦まじかったことでも知られています。妻がへそくりで購入した名馬が出世の糸口になったというエピソードも。

(高知城にある銅像 馬は愛馬の太田黒)
高知県の観光スポット「高知城」を築城した人物としても知られています。
1727年、城下町の大火で追手門を残し天守はじめほとんどの建物を焼失しましたが、1749年に天守を再建。その姿を今に伝えています。

江戸時代以前に建造された天守が残る現存12天守の一つで、本丸の建造物が全て残るお城は高知城だけ。また天守と本丸御殿が現存する唯一のお城なんです!すごい。
追手門と天守がきれいに一枚の写真におさまる珍しいお城でもあります。
この角度が姿形がかっこよくて個人的に好きです!

今回原稿の監修の協力をしてくれた「高知県立高知城歴史博物館」では、一豊をはじめ、山内家について色々と学ぶことができます。場所も高知城のすぐ隣。
ぜひ立ち寄ってみてくださいね。
RKCのラジオ番組「歴史のなかの土佐人たち」の特設サイトもぜひご覧ください🔻

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