学問のために「武士」を捨てた早稲田大学 建学の母・小野梓~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
学問のために「武士」を捨てた早稲田大学 建学の母・小野梓~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
2025.05.19
RKCラジオで毎週火曜日午後5:15から放送中の「歴史のなかの土佐人たち」

高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。

ぐるぐるこうちでは、放送には入りきらずカットした部分も含めて紹介します!
『武士の身分を捨て学問に情熱を注いだ小野梓』
今回ご紹介するのは小野梓(おの あずさ)


(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

政治家・学者で早稲田大学の“建学の母と呼ばれる小野梓は1852年、嘉永5年2月20日、現在の宿毛市に生まれました。
幼名は「𪚥一(てついち)」で、この「𪚥」(テツ)という字は龍の漢字を4つ組み合わせたとても珍しい漢字が使われていました。

小野梓は5人兄弟の3番目の子どもで、元々薬店を生業にしていた小野家は当時では身分の高い武士の家柄でした。

学者だった小野梓、小さい頃から勉強好きだったのかと思いきや、意外や意外。子どもの頃は大の勉強嫌い。遊び呆けていたようで、塾に行っても机に突っ伏して寝ている始末。気が付いたら友人たちはみんな帰っていた、ということもしばしばだったそうです。

しかし13歳頃から真面目に勉学に取り組むようになると、昼は学校で終日勉強、夜は遅くまで父・節吉に教えてもらうという生活に一変!
次第にその才覚をあらわし、梓は落ちこぼれの劣等生から学校随一の優等生となりました。
 
14歳の時に父親の節吉は他界しますが、亡くなる直前に息子を枕元に呼び寄せ、3つのことを言い聞かせています。
一つは「チャンスがきたら意思を貫いて何が何でも頑張ること。チャンスが来なければ本を書き次の世代につなげること」。そして「本は読むより、それを活用する人になること」。
最後は「男子ならば国家のために尽くすこと」。

この3つの遺言はその後の小野梓の人生観に大きな影響を与えることになります。

翌年1月に戊辰戦争(1868年)が勃発すると父親の遺言を守り、梓は自ら志願し、明治新政府軍として戦地へ赴いています。

戦争が終わると東京にいた父の友人を頼り上京。その後まもなく土佐藩は東京に独自の学校を作り土佐出身の武士全員に入学を命じました。梓もその対象でしたが「多くの人と共に学びたい」と入学を拒否すると、土佐藩に強引に呼び戻されてしまいました。

「自由に学問を学びたい」と願った梓は自ら武士という身分を捨て、平民だった叔父の養子になるという決断を下します。学問に対する並々ならぬ情熱が伺えますよね。

18歳で学問の自由を手にした梓はその後、同郷出身で大阪にいた実業家・小野義真(ぎしん)を訪ねます。小野義真は三菱の相談役をはじめ日本鉄道の創設、小岩井農場を設立するなど明治以降の日本の発展に大きく貢献した人物です。

梓は義真の手厚いサポートを受け中国やアメリカ、イギリスへと留学。経済や法律を学び22歳で日本に帰国。


(写真は留学直後の小野梓 写真提供:宿毛歴史館)

帰国後は義真の妹だった利遠(りお)と結婚、初の翻訳著書「羅馬律要(ローマりつよう)」が高く評価され、24歳で司法省・現在の法務省へ入省します。

この時に義真から紹介されたのが、当時の大蔵省にいた大隈重信です。大隈重信は梓よりも一回り以上年が上でしたが、会うなり「彼は自分の同志として共に汗を流すことになる」と梓の才能を見抜き、二人はその後常に行動を共にするようになりました。
 
『早稲田大学 建学の母!33歳の短い生涯』
大隈が立憲改進党を結成すると梓も党のサポートに入ることを決めます。イギリス留学中に目にした立憲政治に大きな影響を受けた梓は憲法の制定、国会の開設をもって国の方針を決めるという平和的な政治を強く求め、全国各地で演説を行っていたそうです。

政治活動を行っていた梓と重信は日本を変えるためには、人材の育成も必要と考えていました。明治初期、日本の大学の授業は教員が日本人であっても授業は全て英語。教科書も外国のものばかりという状態でした。

梓は「日本語で教えて日本語で学ぶことこそが学問の独立への第一歩」という信念のもと、大学創立に奔走。

大隈重信も賛同し、ついに1882年・明治15年、梓が30歳の時に念願だった東京専門学校・現在の早稲田大学が開校しました。

学校の創立まで実務などは全て梓が請け負っていたことから、小野梓は早稲田大学の「建学の母」、創立者の大隈重信は「建学の父」と呼ばれています。

教師として教壇に立っていた梓の熱意のこもった授業は学生たちに評判になり、全国から多くの入学希望者が集まったそうです。学問の独立を掲げた梓は、父・節吉の遺した「本を活用する人になること」も果たしたといえるのではないでしょうか。

そして梓は父の遺言「本を書き次の世代につなげることと」にも着手します。
良い本を書き、出版し、販売まで一貫して行う東洋館書店を大学創立からわずか半年後に立ち上げました。

日中は政治活動に学校での講義、書店の経営。夜は新書や翻訳活動とまさに父の教え通り「チャンスがきたら意思を貫いて何が何でも頑張ること」を実践し寝る間も惜しんで働き続けていましたが、元々体が丈夫ではなかった梓は体調を崩し1886年、明治19年に肺結核で亡くなります。

まだ33歳の若さだった小野梓、多くの人に愛され慕われた彼の葬儀には多くの参列者が訪れ、その数は1000人を超えたと言われています。

今回は、小野梓を紹介しました。

📝執筆担当のあとがき📝

早稲田大学と言えば「大隈重信」ということは多くの方が知っているかもしれませんが「小野梓」という人物がその開校に尽力したことは高知県民でも多くの人はあまり知らないかもしれません。

「学問の独立」を掲げて33歳の生涯を駆け抜けた宿毛市出身の偉人を、ぜひこの機会に多くの人に知って欲しいと執筆に至りました。

政治活動だけでなく、開校や書籍の出版・販売など色々なことを手掛けてそれを成しえてきた小野梓はいわゆる「しごでき」仕事が非常に早く、“超”できる人物だったのではないかと感じます!

一方で家庭思いで子煩悩な父親だったようで、忙しい身でありながら子どもたちの面倒をよく見ていたことが日記に記されています。

その他の興味深い話として、父の友人で同じ宿毛出身だった岩村通俊とのエピソードが残されています。

岩村通俊は地方長官として活躍、特に北海道の開拓に力を注いだことから後に「北海道のまちづくりの父」と言われた人物です。

小野梓が東京で勉学に勤しんでいたある日のこと。
岩村通俊が酔ったふりをして扇子で梓をピシャリとたたき「お前は今のままでは到底父親には及ばない」と告げました。「今に見てろ」と心で叫んだ梓。向学心にさらに火がついたようで、のちにあの扇子の一撃を「自分のためにあれほど役にたったものはない」と回想しています。

宿毛市出身の偉人はまだまだたくさん!

先ほど紹介した岩村通俊以外にも本文にも登場した実業家の小野義信・竹内明太郎(吉田茂の実兄でコマツの創業者)、本山白雲(彫刻家で桂浜の坂本龍馬像や早稲田大学の小野梓の胸像など多数手がける)などなど…今後も執筆していくのでご期待下さい!

今回原稿の監修の協力をしてくれた「宿毛市立宿毛歴史館」では、小野梓について色々と学ぶことができます。ぜひ立ち寄ってみてくださいね。

RKCのラジオ番組「歴史のなかの土佐人たち」の特設サイトもぜひご覧ください🔻

 
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