熊本城を死守した男!谷干城~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
熊本城を死守した男!谷干城~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
2024.05.26
RKCラジオで毎週火曜日午後5:15から放送中の「歴史のなかの土佐人たち」

高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。

ぐるぐるこうちでは、放送には入りきらずカットした部分も含めて紹介します!
『四万十町窪川出身 幕末から明治にかけて軍人で政治家として活躍した谷干城』
今回は 「谷干城(たてき)」

武士・軍人・教育者、政治家そして「熊本城を守った名将」として知られる谷干城(たてき)別名・谷干城(かんじょう)は天保8年1837年3月18日、現在の高知県四万十町・窪川で生まれました。同い年に板垣退助と吉村虎太郎、そして1歳年上に坂本龍馬がいます。

学問や武術の指導者をしながら医師としても働いていた父から、弓や剣術を熱心に習っていたようですが、学問の方は?というと、これが大の勉強嫌い。とても腕白な子どもだったそうです。

9歳の頃、父が土佐藩の武道師範に抜擢されると高知城下へ。12歳で名前を「干城(たてき)」に改名。これは中国の詩集「詩経」から取ったもので「盾となり城となって主(あるじ)・国を守る武士」という意味があります。

ちなみに戸籍上は「たてき」と読みますが本人は音読みの「かんじょう」の方を好んでいたそうです。

この頃には剣術の腕前は同年代で右に出る者がいないと言われており、その評判から容堂候として知られる土佐藩主・山内豊信(とよしげ)との謁見も叶っています。

武術一筋だった谷干城に大きな転機が訪れたのは1854年、17歳の時に起こった安政の大地震。友人たちが仮住まいの中で軍事書物を読んでいるのを見て一念発起!猛勉強の末、22歳で土佐藩の推薦を受けると学問修業に江戸へ。
何度かの江戸遊学の中で人生の師と仰いだ儒学者「安井息軒(やすい そくけん)」、そして武市半平太との出会いで攘夷思想に傾倒していきました。

結婚は25歳の時。妻の玖満子(くまこ)は、賢く芯の強い女性で生涯に渡って干城の良き相談相手、同志となり「こういう妻はまたとない」と言うほど固い絆で結ばれた仲の良い夫婦だったそうです。


(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
『西南戦争で西郷隆盛と対立・熊本城を守った名将 』
30歳を過ぎた頃、長崎で後藤象二郎や坂本龍馬と交流を持つと、攘夷から開国・倒幕支持者に。板垣退助らと共に薩摩藩の西郷隆盛に会い、薩摩と土佐で協力し武力討幕することを約束しました。

そんな時起こったのが龍馬暗殺。龍馬をとても尊敬していた干城は、暗殺の一報を聞くと現場に真っ先に駆けつけ、重症だった中岡慎太郎から犯人に関する情報を聞き出しています。

戊辰戦争では土佐藩軍を率いていた板垣退助の片腕として活躍。この戦争では元新撰組局長の近藤勇が捕らえられましたが、龍馬暗殺実行犯として新撰組に疑いの目を向けていた干城は、仇討ちとして周囲の反対を押し切り、近藤をその場で処刑してしまいます。

そして明治10年に起こった西南戦争では新政府軍として、かつて協力を誓い合った西郷隆盛と対立します。新政府軍3000に対し、西郷軍は4倍近い13000。総指揮を命じられた干城は
食糧難の中、52日間にわたって熊本城に籠城し敵軍の猛攻に耐えながら熊本城を死守

「干城」の名が示すとおり城を守り抜いた彼は、西郷軍の北上を阻止し政府軍の勝利に大きく貢献しました。熊本城のすぐ側の公園にはその功績を称える谷干城の銅像が建立されています。

明治以降は陸軍士官学校長や学習院院長、また伊藤博文内閣では初代農商務大臣に就任して
政治家に転身。政界・言論界に影響を与え続けました。

ところで、谷干城が西南戦争の勝利で凱旋帰郷した時に祝賀と観月会を兼ねて使った店が宮尾登美子の作品にも登場する大料亭の「陽暉楼」。この会で「新たな名前をつけて欲しい」と頼まれて干城が命名したのが「月を得る」と書く「得月楼」。現在も高知市はりまや町にあるこの料亭に残るエピソードです。

今日は現在の四万十町窪川出身・谷干城を紹介しました。


(出典 国立国会図書館「近代日本人の肖像」)


執筆担当のあとがき📝

皆さんは「谷干城」をご存知でしたでしょうか?幕末から明治にかけて活躍した谷干城は、高知県四万十町窪川出身の軍人・政治家で、幼い頃に母を亡くし父と妹と3人で幼少期は貧しい生活を送っていたと言われています。南学中興の祖として知られる谷秦山は先祖にあたり、谷家は代々神道家・国学者の家柄だったそうです。
西南戦争ではかつて協力を誓い合った西郷隆盛と対立。鹿児島から北上する西郷隆盛軍から52日間に渡って熊本城を死守したことは高知県民でも知らない人が多いかもしれません。

首相も経験した大隈重信は、谷干城を「熱烈な感情家」と語るほど土佐のいっごそう気質もあった半面、非常に涙もろい人情家だったとも言われています。
また「私が最も恐れるのは天子と地震と我が妻」と言わしめるほど妻の存在感が大きかった谷干城。彼の活躍の陰には常によき相談相手だった妻・玖満子の存在があったことは言うまでもなさそうです!

RKCのラジオ番組「歴史のなかの土佐人たち」の特設サイトもぜひご覧ください🔻
ぐるぐるこうち編集部
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