5分で読む土佐人・山内容堂篇~ラジオ番組「歴史のなかの土佐人たち」~
5分で読む土佐人・山内容堂篇~ラジオ番組「歴史のなかの土佐人たち」~
2024.02.08
RKCラジオで毎週火曜日午後5:15から放送中の「歴史のなかの土佐人たち」

高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。

ぐるぐるこうちでは、放送には入りきらずカットした部分も含めて紹介します!
元々お殿様になる予定じゃなかった?!幕末の四賢侯として存在感を示した容堂公
山内容堂は1827年文政10年、高知城下生まれ。土佐清水市出身のジョン万次郎とは同い年になります。

本名を豊信(とよしげ)と言い、よく知られている「容堂」の名前は隠居後に名乗ったものです。土佐藩15代目藩主の容堂ですが、実は生まれた時はお殿様になる予定では無かったんです。というのも、容堂は山内家の分家の出身

ただ13代目と14代目が若くして病死、14代目の跡継ぎがまだ3才だったことから、山内家はお家断絶の危機に陥ります。そんな中白羽の矢が立ったのが、14代目のいとこにあたる22才の容堂でした。

武芸の達人としても有名な容堂は、弓、槍、剣術、馬術の他、居合術にも精通しており、14才で目録をもらうほどの腕前だったようです。そんな体育会系の容堂、若い頃は大酒飲みで勉強はあまりしなかったようですが、藩主になってからは読書を好み、周囲が呆れるほど猛勉強をしたと言われています。

そしてペリーが黒船でやってきた1853年、容堂は改革派の吉田東洋を藩の要職に抜擢し、強力に藩政改革を進めます。吉田東洋の義理の甥が後藤象二郎だったことから、後に後藤も藩の重要ポストに起用しています。

そして容堂と言えば幕末の四賢侯(しけんこう)、いわゆる幕末の時代に活躍した4人の大名の一人としても有名です。他の3人は福井藩主の松平慶永(よしなが)、宇和島藩主の伊達宗城(むねなり)、薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)。

4人は幕府の政治方針にも積極的に意見し、存在感を出していましたが、13代将軍徳川家定の跡継ぎ争いで大老の井伊直弼に敗れると、容堂は隠居を決意。江戸で謹慎生活を送ることになります。

33才で隠居した頃から自らを容堂と名乗るようになり、「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」の名で詩を詠んだり、大好きな酒を楽しみながら政界復帰に思いをはせる日々を送っていたそうです。
大のネコ好き!潔癖症だけどネコは特別?!容堂の意外な一面!
では容堂が隠居していた当時の土佐藩はどうなっていたのかと言うと、藩主は容堂のいとこ、前14代藩主の弟・豊範(とよのり)が跡を継いでいました。

世の中の情勢が尊皇攘夷に傾き始めると、藩内で土佐勤王党によるクーデターが勃発。藩の政治を取り仕切っていた容堂の右腕・吉田東洋が暗殺されるなど、土佐藩は混乱状態にありました。

そんな中、江戸で井伊直弼の暗殺事件が起こると、容堂は謹慎を解かれて土佐藩に戻り、隠居の身でありながら、藩主以上の権力を持つようになります。そして破竹の勢いだった尊皇攘夷派の力が弱まり、自身が推していた公武合体派が優勢になってくると、容堂は急遽、土佐勤王党の粛正を断行します。

自身の懐刀であった吉田東洋を暗殺した黒幕、武市半平太に切腹を命じ、土佐勤王党を壊滅に追い込みました。ですが維新後、容堂は優秀な人材だった半平太を処刑したことを非常に悔やんでいたそうです。

1867年10月、容堂は後藤象二郎から提案された「大政奉還」を幕府に進言。15代将軍徳川慶喜はこれを受け入れ、約260年続いた江戸幕府はついに終わりを迎えることになりました。この大政奉還の約8ヶ月前、高知市鷹匠町にあった容堂の別邸で、薩摩藩の使者として訪れた西郷隆盛と会見を行っています。この別邸のあった場所に今建っているのがホテル三翠園敷地内には会見がこの場所であったことを伝える立札が立てられています。

酒はもちろん、妻以外の女性が十数人いたと言われるほど女性をこよなく愛した容堂。実は女性以外にも大好きだったものがあります。それは「」!手が赤くなるまで洗うほどの
潔癖症でしたが、寝床が毛だらけになるのはお構いなし。布団に入れて一緒に寝るほど
溺愛していた
というエピソードが残っています。

そんな容堂は家が傾くほど豪遊する日々を送りながら、46才で他界。晩年は東京橋場(はしば)、今の台東区に構えた別邸で過ごし、隅田川で船遊びを楽しんでいたそうです。

16代続いた山内家は高知市の筆山にある墓地に、初代一豊の代から当主が埋葬されていますが、15代目の容堂だけは晩年を過ごした東京都品川鮫洲(さめず)に建てられた墓地に眠っています。

今回は大政奉還を進言し、日本を明治の幕開けに導いた山内容堂をご紹介しました。

【原稿監修協力 高知県立高知城歴史博物館】


執筆担当のあとがき📝

山内容堂と言えば、坂本龍馬とセットで思い浮かべる人も多いのではないでしょうか?怖い藩主というイメージでしたが、調べてみると努力家な一面もあり、右腕の吉田東洋を「先生」と慕うなど意外な一面もありました。
詩を詠むときに使っていた「鯨海酔公」の名前の通り、お酒は大好きだったようです。また女性もこよなく愛し、派手に豪遊するなど、なかなか豪快なお殿様だったようです。

またネコ好きエピソードも容堂の意外な一面を知れるお話ではないでしょうか!潔癖症にも関わらずネコは特別!という溺愛ぶりだったようです。

高知城歴史博物館では、より詳しい山内家のエピソードが知れますので、ぜひ足を運んでみて下さい!


ぐるぐるこうち編集部
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