三菱財閥の礎をつくった実業家!岩崎弥太郎~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
三菱財閥の礎をつくった実業家!岩崎弥太郎~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
2025.01.16
RKCラジオで毎週火曜日午後5:15から放送中の「歴史のなかの土佐人たち」

高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。

ぐるぐるこうちでは、放送には入りきらずカットした部分も含めて紹介します!
『向学のきっかけはお殿様!?牢獄生活が運命を変えた!?』
三菱財閥という巨大組織の礎をつくった日本を代表する実業家岩崎弥太郎は1835年、天保5年12月11日に現在の安芸市井ノ口で誕生しました。

高知県 安芸市 岩崎弥太郎 三菱
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 

1才下に坂本龍馬、2才下に板垣退助、そのまた一つ下に後藤象二郎など土佐藩を代表する人物が同年代には多くいました。
弥太郎は武士の中でも一番地位の低い「地下(ぢげ)浪人」という身分の出身でした。

幼い頃の岩崎弥太郎は気性が激しく、手が付けられないほどのガキ大将でしたが、弱い者や
貧しい人たちには手を差し伸べる
優しい一面をもった少年だったそうです。

そんな弥太郎の目を勉学へと向けさせたのは、母親の美和(みわ)でした。
弥太郎が8歳の頃から儒学者・小牧米山(めいざん)の塾や分家にあたる岩崎峴山(けんざん)の塾に通わせます。弥太郎は次第に史書や漢詩を好むようになり、才能を開花させていきました。
土佐藩13代藩主の山内豊熈(とよてる)が安芸郡を訪れた際、12歳の弥太郎が歓迎の詩を豊熈に献上すると、その秀才ぶりが認められて扇子と銀を与えられたそうです。
これを期に弥太郎の向学心に火が付き、翌年には高知城下へ。

19才の頃には念願の江戸への遊学が叶いましたが、父・弥次郎が地元の庄屋との争いに巻き込まれ、大けがを負ったのを知ると急遽帰郷。
父の冤罪を訴えますが、相手にされず奉行所の門柱に「奉行所は金で判決を下す!」という
落書きをしたことで弥太郎は逮捕されてしまいます。
この時牢屋で一緒だった商人から算術と商売を学んだことが、弥太郎の将来に大きな影響を与えたと言われています。

牢獄生活が明けると、追放処分となった弥太郎は、実家から遠く離れた高知の鴨部や神田地区を転々とします。この頃に藩の実力者・吉田東洋、また後に親戚関係となる政治家・後藤象二郎との出会いがありました。先の落書き事件が無ければ、明治を代表する経済人・岩崎弥太郎は存在しなかったかも?しれませんね。

吉田東洋が政治のトップに返り咲くと、弥太郎は東洋派として出世の糸口をつかみますが、土佐勤皇王党による東洋の暗殺で情勢は一変。その後何度か藩の仕事に就きますが、結局辞めて故郷に戻るということを繰り返しており、弥太郎の青年時代は決して順風満々帆とは言えませんでした。
『土佐商会の主任任命をきっかけに躍進!海援隊の会計も担当』
そんな弥太郎に転機が訪れたのは1867年慶応3年、弥太郎が32才の時。当時土佐藩の政治のトップに立っていた後藤象二郎が弥太郎を長崎にあった土佐藩の商社「土佐商会」の主任に任命します。

高知県 安芸市 岩崎弥太郎 三菱
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 

後藤は吉田東洋の遠縁で、弥太郎の才能を高く評価していた人物の一人でした。実質の責任者となった弥太郎は諸外国や他藩との交易や対外交渉、また大赤字だった土佐商会の立て直しなどで存在感を発揮していきます。当時、土佐商会のいわゆる金食い虫だった海援隊の会計も弥太郎は任されており、この時期に初めて海援隊のリーダーだった坂本龍馬と交流をもったと言われています。

土佐商会は明治維新後、九十九(つくも)商会、三川(みつかわ)商会と社名を変更していきますが、最終的には岩崎弥太郎が個人事業主の「三菱商会となりました。

35才で三菱を設立した弥太郎は坂本龍馬からの影響を受け、海援隊の船や水夫たちをそのまま雇って「海運業」に乗り出します。政府の保護を受けて急速に事業を発展させてゆき、
東洋の海上王と呼ばれるまでに成功します。その躍進の背景には後藤象二郎の存在が大きかったとされています。弥太郎の息子と後藤の娘が結婚したことで2人は親戚関係になっており、機密情報のやりとりなどがあったと言われています。

ちなみに、弥太郎は筋骨たくましく体はとても丈夫、身長も当時としては高い方でかなりの酒豪としても知られていました。そんな健康体の弥太郎も、政府の要人との度重なる派手な接待など長年の無理に加え、渋沢栄一と三井財閥が手を組んだ企業など、国内外の多くのライバル会社との熾烈な争いの中で徐々に体調を崩していきました。

そして明治18年2月7日、満50才の時、弥太郎は胃がんでこの世を去ります。
死去する間際自分が志したところのまだ十分の一、二しか出来なかったと語ったそうです。

📝執筆担当のあとがき📝

日本を代表する企業・三菱グループの礎を築いた実業家・岩崎弥太郎。
高知県の東部に位置する弥太郎の故郷・​​​​​​安芸市に行くと、その存在が至る所で感じられ、まさに「まちの英雄」という印象を強く受けます。

身分の低い武士から這い上がり、ハングリー精神で競争社会を勝ち抜いて実業家として成功。三菱グループのHPによると、実は日本で最初にボーナスを支給した人物は弥太郎である可能性が高いと紹介されています!

仕事に邁進していた本人の唯一の趣味が庭園観賞や庭づくり。仕事で疲れて思い悩んだ時には立派な庭園を見て気晴らしをしていたそうですよ。

今回監修の協力をしてくれた安芸市の「安芸市立歴史民俗資料館」では弥太郎の生涯をより詳しく知ることができます♪ぜひ近くに行った際は立ち寄ってみてくださいね。

RKCのラジオ番組「歴史のなかの土佐人たち」の特設サイトもぜひご覧ください🔻


 
ぐるぐるこうち編集部
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