花を愛した植物分類学者・牧野富太郎~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
花を愛した植物分類学者・牧野富太郎~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
2023.10.08

RKCラジオで毎週火曜日午後5:15から放送中の「歴史のなかの土佐人たち」

高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。

ぐるぐるこうちでは、放送には入りきらずカットした部分も含めて紹介します!

『体の弱かった少年時代。あだ名は西洋のバッタ?!』
生涯で収集した植物の標本は約40万枚。新種や新品種など1500種類以上の植物を命名するという偉業を成し遂げた植物分類学者「牧野富太郎」が生まれたのは1862年、文久(ぶんきゅう)2年の4月24日。現在の高知県高岡郡佐川町の出身で、造り酒屋の「岸屋(きしや)」を営む、裕福な家の一人息子として誕生しました。




実は生まれた時の名前は富太郎ではなく「成太郎(せいたろう)」と言います。

幼い頃に両親、そして祖父が相次いで他界、体の弱かった成太郎を心配した祖母が6才くらいの頃、名前を「富太郎」と改名しました。何不自由ない生活を送っていた富太郎は山遊びや川遊びが大好きな子どもに育ちます。ちなみに遊び場だった裏山の神社に咲いていたバイカオウレンの花は、富太郎が特に好きな花だったことでも知られています。

勉強熱心で探究心旺盛な少年に育った富太郎は友人からよく「牧野は西洋のハタットウ」とからかわれていたそうです。ハタットウとは地元の方言で「バッタ」。見た目が何となく西洋人っぽくて、手足が痩せて細長かったからそう呼ばれていたと自伝の中で語っています。

富太郎が12歳の時、地元の佐川小学校に入学しますが、授業に物足りなさを感じて2年ほどで自主退学。退学後は周辺の山に出かけては植物採集に勤しんで、独学で植物学を身につけていきました。

退学した翌年、その博識ぶりから中退した佐川小学校の臨時教員にスカウトされます。この頃から植物の観察図を覚え、植物研究に情熱を注ぐようになっていきました。

富太郎は絵の才能も抜群で茎や根などの細かいところまで的確かつ繊細に絵で表す画力も持ち合わせていました。植物学を極めていきたいと決意した富太郎は22才の時に、本格的に上京。その知識の豊富さから東京大学への出入りも許されるようになり、さらに研究に没頭していきます。元々生粋のお坊ちゃま育ちだった富太郎、洋服はもちろん研究道具に至るまで一流のものを好み、その資金は実家からの支援でまかなっていました。

長身で端正な顔立ちに当時最先端の洋服を着こなした富太郎は、きっと人目をひいていたでしょうね!!


 
『「ヤマトグサ」の発見で日本植物学の幕開け!借金のし過ぎて引っ越しは30回以上?!』
26才の時には自費で富太郎初の著書「日本植物志図篇」を発行。原画から印刷までほぼ全てを自分一人で手がけたこの植物誌は、専門家の間でも大きな評判を呼び、富太郎の知名度は益々あがっていきました。さらに28才の若さで、土佐で発見した新種に「ヤマトグサ」と学名をつけます。これは日本人が日本国内で初めて植物に学名をつけることができた日本植物学の幕開けの瞬間となりました。


(ヤマトグサ)

またこの頃、生涯献身的に支え続けてくれた妻のスエに出会います。

酒もたばこも全くやらないが、甘いものには目がなかった富太郎が、偶然立ち寄った駄菓子屋で店員として働いていたスエに一目惚れをしたのが、結婚のきっかけでした。

何もかも順風満帆に進んでいましたが、湯水のように実家のお金を使っていたことも影響し、実家の商売が傾いて没落すると、あっという間に夫婦は借金生活に陥ります。13人の子どもの食費だけでも大変なのに加え、どんどん増えていく膨大な量の標本を保管する為に、広い家を借りなければならず、富太郎の給料では家計は大赤字。

家賃が払えなくなることを繰り返し、富太郎家族はなんと30回近くの引っ越しを余儀なくされています。

多額の借金があった富太郎ですが、三菱財閥の援助や裕福な神戸の青年慈善家による金銭支援によって研究を続け、50歳の時に東京帝国大学の講師、65歳の時には大学から理学博士の称号までもらうまでになりました。ただ当の本人は博士号には興味が無く、周囲の強いすすめでしぶしぶ受けたそうです。

植物採集に行くときは、常にスーツに蝶ネクタイというオシャレをして出かけるほど、草花を愛していた富太郎は94歳まで長生きしますが、実は87歳の時に医者に臨終を宣告されているんです!!

呼吸が止まった富太郎の口に家族が死に水をふくませていたまさにその時!富太郎の喉が鳴って生き返ったというすごいエピソードが残っています。

今回は生涯を草花の研究に身を捧げた〝日本の植物学の父〟牧野富太郎を紹介しました。

【原稿監修協力 高知県立牧野植物園】

📝執筆担当のあとがき📝
朝の連続ドラマで日本中にその名広めた植物分類学「牧野富太郎」
若い頃の写真がネットでも拡散され「イケメン!!」と話題になりました。

その活躍を献身的に支えた妻・スエとの間には13人の子どもをもうけ賑やかな一家だったことがうかがえます。まさに植物にその生涯を捧げた富太郎。研究のために大金を使い大きな借金を背負います。借金取りが家に来るのは日常茶飯事!!妻のスエが2階の窓から「赤い旗」を出すと借金取りが来たサイン。富太郎は旗がしまわれるまで外で時間をつぶしていたそうです…。

借金に加え資料の保管の為に大きな家も必要で引っ越しした回数は30回以上!家族も大変だったのではないでしょうか(汗)
放送には入りませんでしたが、富太郎は牛肉が大好きで、すき焼きをよく食べていたそう。
長生きの秘訣はお肉パワーだったかも?!

面白いエピソードが満載の牧野富太郎!高知市五台山の県立牧野植物園では牧野博士の愛した四季折々の植物を楽しむことができます。おでかけにおススメのスポットです!!

その他の土佐人は「歴史のなかの土佐人たち」公式サイトで紹介中☆

ぐるぐるこうち編集部
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