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相撲大好き!自由民権家・板垣退助~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
2025.02.11
RKCラジオで毎週火曜日午後5:15から放送中の「歴史のなかの土佐人たち」
高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。
ぐるぐるこうちでは、放送には入りきらずカットした部分も含めて紹介します!
高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。
ぐるぐるこうちでは、放送には入りきらずカットした部分も含めて紹介します!
『近所でも有名なガキ大将!名字は元々「乾」だった!?』
今回紹介するのは「板垣退助」
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出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
1837年、天保8年の4月に名門・乾家の長男として現在の高知市本町で生まれました。
広大な屋敷だった生家の跡地には現在高野寺と言うお寺が建てられており、その入り口横には「板垣退助先生誕生地碑」と書かれた石碑が建てられています。
当時の建物は取り壊されて残っていませんが、生家の「門」だけは明治42年に高知市比島町にある寺院「龍乗院」(りゅうじょういん)に移築されて現在でもお寺の門として保存されています。
生時は「乾退助」と言う名前でしたが、いつ板垣になったかと言うと彼が31才の時に参加した
戊辰戦争の時からだと言われています。甲斐国、今の山梨県での戦いを予想し「自分は戦国時
代、甲斐を率いた武田信玄に仕えた重臣、板垣信方の子孫」であることを民衆の前で訴えるこ
とで、甲斐の人々の心を掴み、戦いを有利に進めようという狙いがあったようです。
板垣退助の幼少期ですが、勉強嫌い、しかも相当腕白な少年でした。近所でも有名なガキ大将で、ほぼ毎日喧嘩をして帰って来るような子供だったと言います。
近所には幼馴染で同じく維新後に政治家として活躍した1才年下の「後藤象二郎」の生家があり、よく相撲を取り合っていたというエピソードが残されています。
板垣の幼い頃の名前が猪之助(いのすけ)、後藤は保弥太(やすやた)だったことから、お互いを「いのす」「やす」と呼び合う仲で、喧嘩の時には板垣は後藤の嫌いなヘビを、後藤は板垣の嫌いな道端に落ちている馬の糞を投げつけていたという記録が残っており、後に板垣は「後藤が馬糞で仇討ちした時は、本当に絶句した・・・」と語っています。
成長してからも板垣の喧嘩癖は止まず、20才の頃には粗暴な行いが原因で神田村(現在の高知市神田)で謹慎生活を送っています。その間に農民の厳しい苦労を知ったことで、その後の四民平等思想の礎につながったと言われています。
板垣が暮らしていた神田の住まいの跡地には、2018年に記念の碑が建てられました。
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出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
1837年、天保8年の4月に名門・乾家の長男として現在の高知市本町で生まれました。
広大な屋敷だった生家の跡地には現在高野寺と言うお寺が建てられており、その入り口横には「板垣退助先生誕生地碑」と書かれた石碑が建てられています。
当時の建物は取り壊されて残っていませんが、生家の「門」だけは明治42年に高知市比島町にある寺院「龍乗院」(りゅうじょういん)に移築されて現在でもお寺の門として保存されています。
生時は「乾退助」と言う名前でしたが、いつ板垣になったかと言うと彼が31才の時に参加した
戊辰戦争の時からだと言われています。甲斐国、今の山梨県での戦いを予想し「自分は戦国時
代、甲斐を率いた武田信玄に仕えた重臣、板垣信方の子孫」であることを民衆の前で訴えるこ
とで、甲斐の人々の心を掴み、戦いを有利に進めようという狙いがあったようです。
板垣退助の幼少期ですが、勉強嫌い、しかも相当腕白な少年でした。近所でも有名なガキ大将で、ほぼ毎日喧嘩をして帰って来るような子供だったと言います。
近所には幼馴染で同じく維新後に政治家として活躍した1才年下の「後藤象二郎」の生家があり、よく相撲を取り合っていたというエピソードが残されています。
板垣の幼い頃の名前が猪之助(いのすけ)、後藤は保弥太(やすやた)だったことから、お互いを「いのす」「やす」と呼び合う仲で、喧嘩の時には板垣は後藤の嫌いなヘビを、後藤は板垣の嫌いな道端に落ちている馬の糞を投げつけていたという記録が残っており、後に板垣は「後藤が馬糞で仇討ちした時は、本当に絶句した・・・」と語っています。
成長してからも板垣の喧嘩癖は止まず、20才の頃には粗暴な行いが原因で神田村(現在の高知市神田)で謹慎生活を送っています。その間に農民の厳しい苦労を知ったことで、その後の四民平等思想の礎につながったと言われています。
板垣が暮らしていた神田の住まいの跡地には、2018年に記念の碑が建てられました。
『相撲・半熟卵・アユの塩焼きが大好き!日本に残る最古のルイヴィトン製品の持ち主!?』
そして板垣退助と言えば「民意を政治に反映させよう!」と広めた自由民権運動の活動家としてその名が知られています。
当時の明治政府は一部の役人と金持ちだけを優遇していて、農民などには重税を課し、徴兵制や過酷な労働を強いていたことから、この運動思想は民衆の心を大きくつかみ、板垣の大衆人気はものすごく高かったそうです。
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出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
この運動を普及させる為にまず板垣が高知県で立ち上げたのが「立志社」という団体で、「立志社」が発行していた機関誌の流れをくんで発刊され、今でも県民に広く親しまれているのが地元紙「高知新聞」になります。
立志社跡地近くの高知市中央公園には「自由は土佐の山間より出づ」と書かれた石と共に記念の碑が建てられています。
そして板垣退助の言葉で有名なのが「板垣死すとも自由は死せず」ですよね。
これは明治15年、岐阜県の演説会場の玄関先で短刀を持った男に襲われた時、板垣が咄嗟に
発したものです。周りにいた人々が男をすぐに取り押さえたため幸いにも軽傷、この名言は、当時の新聞などにも大きく取り上げられ板垣の人気を不動のものにしました。
ただ板垣は常に身の危険を感じていたようで、板垣の居住地・高知市潮江の屋敷に奉公に来ていた女性が「板垣さんは毎晩枕元にピストルと大小の刀を置いて寝ていた」と回想しています。
また「性格は大変なきれい好き、大好物は半熟卵とアユの塩焼きだった」というエピソードも語られています。
板垣は大正八年、82才でこの世を去りますが、葬儀の時に棺を担いだのは16人の「力士」。
というのも幼い頃から相撲好きだった板垣はで、潮江地区に建てた自宅に稽古場まで作り、力士の育成に力を入れるなど、「相撲」を日本の国技として発展、振興させることにも貢献しました。
最後に。日本に残る最も古いルイ・ヴィトン製品が「トランク」なんですがそれを注文したのが板垣退助です。視察の為に欧米を訪れた際、パリ本店で購入、本体にもアルファベッドで「ITAGAKI」と刻印されており、現在は高知市桟橋にある「高知市立自由民権記念館」で大切に保管されています。
また同館には板垣が岐阜県で襲われた時、男が所持していた短刀も所蔵されており、常設展示室では、常時複製品を見ることが出来るそうです。
今回は自由と民主化を叫んだ土佐の革命児「板垣退助」をご紹介しました。
📝執筆担当のあとがき📝
学生時代、歴史の授業で「自由民権運動」を習った時に必ず出てきた板垣退助。
高知を代表する偉人として高知城内には銅像、高知市の天神橋商店街にも板垣の写真などが掲げられていますが元々、名字が「乾」だったことは初耳。
調べてみて、知っているようであまり知らなかった土佐の偉人の1人でした!
若い頃はなかなか喧嘩っ早い人物だったようですが、謹慎を機に農民の苦労を知ったことが板垣のその後の人生を大きく変えるきっかけの一つに。
相撲をこよなく愛し、日本に残る最古のルイ・ヴィトン製品も板垣の持ち物だったことにも驚きでした!
今回監修の協力をしてくれた高知市桟橋の「高知市立自由民権記念館」には板垣退助はもちろん、土佐で活躍した自由民権家たちがたくさん紹介されていますのでぜひぜひ行ってみてください!!
RKCのラジオ番組「歴史のなかの土佐人たち」の特設サイトもぜひご覧ください🔻
当時の明治政府は一部の役人と金持ちだけを優遇していて、農民などには重税を課し、徴兵制や過酷な労働を強いていたことから、この運動思想は民衆の心を大きくつかみ、板垣の大衆人気はものすごく高かったそうです。
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出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
この運動を普及させる為にまず板垣が高知県で立ち上げたのが「立志社」という団体で、「立志社」が発行していた機関誌の流れをくんで発刊され、今でも県民に広く親しまれているのが地元紙「高知新聞」になります。
立志社跡地近くの高知市中央公園には「自由は土佐の山間より出づ」と書かれた石と共に記念の碑が建てられています。
そして板垣退助の言葉で有名なのが「板垣死すとも自由は死せず」ですよね。
これは明治15年、岐阜県の演説会場の玄関先で短刀を持った男に襲われた時、板垣が咄嗟に
発したものです。周りにいた人々が男をすぐに取り押さえたため幸いにも軽傷、この名言は、当時の新聞などにも大きく取り上げられ板垣の人気を不動のものにしました。
ただ板垣は常に身の危険を感じていたようで、板垣の居住地・高知市潮江の屋敷に奉公に来ていた女性が「板垣さんは毎晩枕元にピストルと大小の刀を置いて寝ていた」と回想しています。
また「性格は大変なきれい好き、大好物は半熟卵とアユの塩焼きだった」というエピソードも語られています。
板垣は大正八年、82才でこの世を去りますが、葬儀の時に棺を担いだのは16人の「力士」。
というのも幼い頃から相撲好きだった板垣はで、潮江地区に建てた自宅に稽古場まで作り、力士の育成に力を入れるなど、「相撲」を日本の国技として発展、振興させることにも貢献しました。
最後に。日本に残る最も古いルイ・ヴィトン製品が「トランク」なんですがそれを注文したのが板垣退助です。視察の為に欧米を訪れた際、パリ本店で購入、本体にもアルファベッドで「ITAGAKI」と刻印されており、現在は高知市桟橋にある「高知市立自由民権記念館」で大切に保管されています。
また同館には板垣が岐阜県で襲われた時、男が所持していた短刀も所蔵されており、常設展示室では、常時複製品を見ることが出来るそうです。
今回は自由と民主化を叫んだ土佐の革命児「板垣退助」をご紹介しました。
📝執筆担当のあとがき📝
学生時代、歴史の授業で「自由民権運動」を習った時に必ず出てきた板垣退助。
高知を代表する偉人として高知城内には銅像、高知市の天神橋商店街にも板垣の写真などが掲げられていますが元々、名字が「乾」だったことは初耳。
調べてみて、知っているようであまり知らなかった土佐の偉人の1人でした!
若い頃はなかなか喧嘩っ早い人物だったようですが、謹慎を機に農民の苦労を知ったことが板垣のその後の人生を大きく変えるきっかけの一つに。
相撲をこよなく愛し、日本に残る最古のルイ・ヴィトン製品も板垣の持ち物だったことにも驚きでした!
今回監修の協力をしてくれた高知市桟橋の「高知市立自由民権記念館」には板垣退助はもちろん、土佐で活躍した自由民権家たちがたくさん紹介されていますのでぜひぜひ行ってみてください!!
RKCのラジオ番組「歴史のなかの土佐人たち」の特設サイトもぜひご覧ください🔻
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