漂流から日米の懸け橋に!ジョン万次郎~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
2024.10.01
RKCラジオで毎週火曜日午後5:15から放送中の「歴史のなかの土佐人たち」
高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。
ぐるぐるこうちでは、放送には入りきらずカットした部分も含めて紹介します!
高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。
ぐるぐるこうちでは、放送には入りきらずカットした部分も含めて紹介します!
『無人島で約5カ月の漂流生活・・・奇跡の連続でアメリカに渡ったジョン万次郎』
今回は「ジョン万次郎」こと「中浜万次郎」!
中浜万次郎は文政10年(1827年)1月1日に現在の土佐清水市の貧しい漁師の家で5人兄弟の次男として誕生しました。9歳の頃に父親が他界、兄も病弱だったこともあり幼い頃から下働きに出るなどして家計を支えていた孝行息子でした。
万次郎が14歳の頃、現在の土佐市宇佐にあった漁船で働き始めます。
1841年・天保3年の1月、その年の初漁に仲間4人と長さ8メートルの小舟に乗って出ますが、
嵐にあって漂流、その約1週間後に東京都からほぼ真南、580キロほど先にある絶海の孤島
「鳥島(とりしま)」に漂着します。
この島は国の特別天然記念物の「アホウドリ」の楽園と言われており、数多くの海鳥たちが生息していました。幸運にも鳥島にたどり着けた万次郎たちは警戒心の薄いアホウドリなどを捕獲しながら無人島生活を送ることになります。
もし鳥島へ流されず、黒潮海流に乗ったまま北上していたら1月という厳しい寒さの中では彼らが無事に生き残ることは難しかったこと、鳥島以外の島に流れ着いていたら食料確保が難しかったかもしれない、ということを考えると5人は非常に運が良かったと言えますよね。
ですが、頼みの綱だったアホウドリは渡り鳥。鳥島を去ってしまうと食料が尽き、絶体絶命の生活となった5月、漂流143日目にアメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド号」に5人は救助されます。
実は2000年にジョン・ハウランド号の乗組員の一人の航海日誌がアメリカ国内で発見され、その時の記録が残されていました。なぜ乗組員たちが絶海の孤島の鳥島に立ち寄ったかというと・・・食料にする為の「ウミガメを探すため」
捕鯨船が偶然立ち寄ってくれたおかげで救助された5人はやはり強運の持ち主ですよね。
ただ当時の日本は鎖国状態で外国船が近づける状態では無かった上、もし帰国出来たとしても外国人と接触した彼らに命の保証はないという絶望的な状況。
そこで船長のウイリアム・ホイット・フィールドは万次郎たちを安全なハワイへ連れて行くことにしますが、ここからが運命の分かれ道。
万次郎以外の4人はそのままハワイで船を降りましたが、万次郎は船長に誘われそのまま渡米することを決意!乗組員と共に船に残り、航海を続けることになりました。
船長は万次郎の鋭い観察力と行動力を気に入り、ジョン・ハウランド号の名前をとって
彼に「ジョン・マン」という愛称を付けています。
中浜万次郎は文政10年(1827年)1月1日に現在の土佐清水市の貧しい漁師の家で5人兄弟の次男として誕生しました。9歳の頃に父親が他界、兄も病弱だったこともあり幼い頃から下働きに出るなどして家計を支えていた孝行息子でした。
万次郎が14歳の頃、現在の土佐市宇佐にあった漁船で働き始めます。
1841年・天保3年の1月、その年の初漁に仲間4人と長さ8メートルの小舟に乗って出ますが、
嵐にあって漂流、その約1週間後に東京都からほぼ真南、580キロほど先にある絶海の孤島
「鳥島(とりしま)」に漂着します。
この島は国の特別天然記念物の「アホウドリ」の楽園と言われており、数多くの海鳥たちが生息していました。幸運にも鳥島にたどり着けた万次郎たちは警戒心の薄いアホウドリなどを捕獲しながら無人島生活を送ることになります。
もし鳥島へ流されず、黒潮海流に乗ったまま北上していたら1月という厳しい寒さの中では彼らが無事に生き残ることは難しかったこと、鳥島以外の島に流れ着いていたら食料確保が難しかったかもしれない、ということを考えると5人は非常に運が良かったと言えますよね。
ですが、頼みの綱だったアホウドリは渡り鳥。鳥島を去ってしまうと食料が尽き、絶体絶命の生活となった5月、漂流143日目にアメリカの捕鯨船「ジョン・ハウランド号」に5人は救助されます。
実は2000年にジョン・ハウランド号の乗組員の一人の航海日誌がアメリカ国内で発見され、その時の記録が残されていました。なぜ乗組員たちが絶海の孤島の鳥島に立ち寄ったかというと・・・食料にする為の「ウミガメを探すため」
捕鯨船が偶然立ち寄ってくれたおかげで救助された5人はやはり強運の持ち主ですよね。
ただ当時の日本は鎖国状態で外国船が近づける状態では無かった上、もし帰国出来たとしても外国人と接触した彼らに命の保証はないという絶望的な状況。
そこで船長のウイリアム・ホイット・フィールドは万次郎たちを安全なハワイへ連れて行くことにしますが、ここからが運命の分かれ道。
万次郎以外の4人はそのままハワイで船を降りましたが、万次郎は船長に誘われそのまま渡米することを決意!乗組員と共に船に残り、航海を続けることになりました。
船長は万次郎の鋭い観察力と行動力を気に入り、ジョン・ハウランド号の名前をとって
彼に「ジョン・マン」という愛称を付けています。
『母に会いたい!日本へ戻り多くのサムライに影響を与えた万次郎』
救出から約2年後、アメリカに上陸した万次郎は船長の養子となり現地の小学校で英語の
読み書きから学びます。
貧しい漁師の家に育った万次郎は日本語の読み書きも出来ない少年でしたが、努力を重ね進学。数学、測量、航海術などを学び首席を取るほどの成績をおさめています。
当時の学友の記録では、万次郎は内気で物静か、謙虚な性格だったと残されています。
アメリカに留学した日本人第一号となった万次郎は卒業後、19才の時に再び捕鯨船に乗り世界の海へと旅立ちます。すぐにその頭角を現し、副船長にまで昇格しますがそんな時にカリフォルニアで起こったのが「ゴールドラッシュ」!
日本に残した母「しお」に会いたいという強い気持ちを持ち続けていた万次郎は帰国資金を集める為、一攫千金を夢見てアメリカ西部へ向かいます。
金鉱で大金を稼いだ万次郎はその資金を元にまずは仲間4人が残っているハワイ・ホノルルへ。仲間の内一人はハワイで既に病死、また一人は現地で結婚していた為、仲間2人と万次郎の計3人で日本に向けて出航します。
漂流から10年、万次郎24才の時についに琉球、今の沖縄県に上陸することが出来ました。
薩摩藩などから厳しい取り調べを受けた3人が故郷の地を踏めたのは琉球上陸から2年ほど経ったころでした。
土佐藩から侍の地位を授かった万次郎は藩校の教授に任命され、後藤象二郎や岩崎弥太郎などを直接指導したと言われています。その高い英語力、航海術、貴重な海外の情報は土佐藩だけでなく、当時開国に揺れていた幕府にも重宝され江戸に招聘(しょうへい)されます。
その時、万次郎の出身地の「中浜」を名字として与えられ以後、中濱万次郎と名乗るようになりました。
40才を過ぎてからは東京の開成学校、今の東京大学の教授として教壇に立つなど精力的に活動。普仏戦争の視察へ参加した際は、中継地で立ち寄ったアメリカで恩人のホイット・フィールド船長と20年ぶりの再会を果たしています。
その後中浜家とホイット・フィールド家は今に至るまで代々交流を続けているそうです。
万次郎は71才で他界しますが、生前は大の甘党で濃い抹茶に砂糖を入れてよく飲んでいたそう。そして大好物だったのが中浜家で「浜煮」と呼ばれていた煮物。大鍋にマグロのトロと太ネギのぶつ切り、その上にたっぷりの砂糖と少量の醤油を入れて煮込んだものが大好きだったと伝えられています。
また2010年に、アメリカでジョン・マンが主人公の児童向け小説「ハート・オブ・サムライ」が発売されベストセラーに!
万次郎の人気・知名度はアメリカの子どもたちの間で非常に高いそうですよ。
今回はジョン万次郎こと中浜万次郎をご紹介しました。
📝執筆担当のあとがき📝
数奇な運命に翻弄されながらも不屈の精神で日米の架け橋となったジョン万次郎。
調べてみると意外と知らないことだらけ!今や日本でも定番となっている「ABCの歌」もジョン万次郎が日本に初めて紹介したと言われているものです。
14歳で漂流しアメリカで成功をおさめて帰国。
ずっと会いたかった母のしおと念願の再会を果たした時、万次郎はお土産として母を写すためのカメラ、針仕事をする為のミシンを持ち帰ったと言われているそうですよ。
多くの志士たちに大きな影響を与えた万次郎。もし帰国しなければ大政奉還にも関わった土佐藩の藩士・後藤象二郎や世界的に活躍し大きな財を成した経済人・岩崎弥太郎の人生も変わっていたかも?しれません。
今回監修の協力をしてくれた土佐清水市の「ジョン万次郎資料館」では万次郎の生涯を詳しく知ることができます♪
RKCのラジオ番組「歴史のなかの土佐人たち」の特設サイトもぜひご覧ください🔻
読み書きから学びます。
貧しい漁師の家に育った万次郎は日本語の読み書きも出来ない少年でしたが、努力を重ね進学。数学、測量、航海術などを学び首席を取るほどの成績をおさめています。
当時の学友の記録では、万次郎は内気で物静か、謙虚な性格だったと残されています。
アメリカに留学した日本人第一号となった万次郎は卒業後、19才の時に再び捕鯨船に乗り世界の海へと旅立ちます。すぐにその頭角を現し、副船長にまで昇格しますがそんな時にカリフォルニアで起こったのが「ゴールドラッシュ」!
日本に残した母「しお」に会いたいという強い気持ちを持ち続けていた万次郎は帰国資金を集める為、一攫千金を夢見てアメリカ西部へ向かいます。
金鉱で大金を稼いだ万次郎はその資金を元にまずは仲間4人が残っているハワイ・ホノルルへ。仲間の内一人はハワイで既に病死、また一人は現地で結婚していた為、仲間2人と万次郎の計3人で日本に向けて出航します。
漂流から10年、万次郎24才の時についに琉球、今の沖縄県に上陸することが出来ました。
薩摩藩などから厳しい取り調べを受けた3人が故郷の地を踏めたのは琉球上陸から2年ほど経ったころでした。
土佐藩から侍の地位を授かった万次郎は藩校の教授に任命され、後藤象二郎や岩崎弥太郎などを直接指導したと言われています。その高い英語力、航海術、貴重な海外の情報は土佐藩だけでなく、当時開国に揺れていた幕府にも重宝され江戸に招聘(しょうへい)されます。
その時、万次郎の出身地の「中浜」を名字として与えられ以後、中濱万次郎と名乗るようになりました。
40才を過ぎてからは東京の開成学校、今の東京大学の教授として教壇に立つなど精力的に活動。普仏戦争の視察へ参加した際は、中継地で立ち寄ったアメリカで恩人のホイット・フィールド船長と20年ぶりの再会を果たしています。
その後中浜家とホイット・フィールド家は今に至るまで代々交流を続けているそうです。
万次郎は71才で他界しますが、生前は大の甘党で濃い抹茶に砂糖を入れてよく飲んでいたそう。そして大好物だったのが中浜家で「浜煮」と呼ばれていた煮物。大鍋にマグロのトロと太ネギのぶつ切り、その上にたっぷりの砂糖と少量の醤油を入れて煮込んだものが大好きだったと伝えられています。
また2010年に、アメリカでジョン・マンが主人公の児童向け小説「ハート・オブ・サムライ」が発売されベストセラーに!
万次郎の人気・知名度はアメリカの子どもたちの間で非常に高いそうですよ。
今回はジョン万次郎こと中浜万次郎をご紹介しました。
📝執筆担当のあとがき📝
数奇な運命に翻弄されながらも不屈の精神で日米の架け橋となったジョン万次郎。
調べてみると意外と知らないことだらけ!今や日本でも定番となっている「ABCの歌」もジョン万次郎が日本に初めて紹介したと言われているものです。
14歳で漂流しアメリカで成功をおさめて帰国。
ずっと会いたかった母のしおと念願の再会を果たした時、万次郎はお土産として母を写すためのカメラ、針仕事をする為のミシンを持ち帰ったと言われているそうですよ。
多くの志士たちに大きな影響を与えた万次郎。もし帰国しなければ大政奉還にも関わった土佐藩の藩士・後藤象二郎や世界的に活躍し大きな財を成した経済人・岩崎弥太郎の人生も変わっていたかも?しれません。
今回監修の協力をしてくれた土佐清水市の「ジョン万次郎資料館」では万次郎の生涯を詳しく知ることができます♪
RKCのラジオ番組「歴史のなかの土佐人たち」の特設サイトもぜひご覧ください🔻
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