
明治維新の魁になった志士!吉村虎太郎~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
2024.06.21
RKCラジオで毎週火曜日午後5:15から放送中の「歴史のなかの土佐人たち」
高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。
ぐるぐるこうちでは、放送には入りきらずカットした部分も含めて紹介します!
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『新しい国を作る!初めて土佐藩を脱藩した志士・吉村虎太郎』
幕府を倒して新しい国を作る!という強い信念の元、初めて土佐藩を脱藩し明治維新の実現に大きな影響を与えた吉村虎太郎(とらたろう)。

(画像提供:梼原町教育委員会)
1837年・天保8年4月18日、四万十川の源流地点がある現在の高知県津野町の裕福な庄屋の長男として誕生しました。本名は「重郷(しげさと)」と言います。
幕末に活躍した坂本龍馬と中岡慎太郎、そして武市半平太と共に「土佐四天王」と称される虎太郎は、この4人の中では一番年が若く、龍馬より2つ年下になります。
抜群の行動力に加え、頭脳明晰な少年だったと言われており、12才の時に父親が病気を患うと、後を継いで現在の津野町の中部にあった北川村という地域の庄屋を務めることになります。庄屋というのは「村長」のような役目で村に関するあらゆることを取り仕切る、とても重要な役職でした。
世襲制が当然の時代だったとは言え、わずか12歳の少年がいわば「村長」のような庄屋の役職に就くのは当時でも珍しかったことから見ると、虎太郎が非常に優秀な人材だったことが伺えます。
18歳で須崎浦(現 須崎市)の庄屋に赴任した時に、郡役人として赴任していた間崎哲馬に学問を、また高知城下で武市半平太に剣術を習うようになると虎太郎は尊攘思想に傾倒し、土佐勤王党に加わることになります。
天才と言われていた間崎哲馬の門下生には中岡慎太郎や岩崎弥太郎など多くの志士がいましたが、虎太郎はその中でも成績は極めて優秀、志士たちの中でも非常に目立つ存在だったそうです。
そして21歳の時に現在の須崎市にあった下分村の庄屋に転任、23歳で梼原村(現在の梼原町)の大庄屋となりました。虎太郎は庄屋としての仕事に誇りをもち、赴任先では住民の為によく働いたと言われています。
中でも梼原村で虎太郎が作った「石の金庫」は、飢饉などの非常時に村の人を救う為にあつらえたもので、皆が安心してお金を預けられるよう、虎太郎と村の長老が一つずつ鍵を管理し、二人が揃わないと鍵が開けられない仕組みになっていました。虎太郎の危機管理能力、政治能力の高さが感じられるエピソードですよね。
一方、当時の土佐藩では庄屋の力が大きくなり過ぎないよう彼らを頻繁に転勤させていました。これに不満を感じていた庄屋たちは同盟を組んで、藩に待遇の改善を訴えますがなかなか受け入れてもらえず、やがて虎太郎ら庄屋のメンバーたちの間に「庄屋という職業は元々天皇から直接任命されていたものだから、自分達は天皇直属の家臣だ!」という思いが芽生えるようになります。
彼らは当時の武士にとって当たり前だった「藩主への忠誠」よりも「天皇に直接忠誠を誓うこと」を重んじるようになり、これが後の尊皇思想につながっていくことになります。

(画像提供:梼原町教育委員会)
1837年・天保8年4月18日、四万十川の源流地点がある現在の高知県津野町の裕福な庄屋の長男として誕生しました。本名は「重郷(しげさと)」と言います。
幕末に活躍した坂本龍馬と中岡慎太郎、そして武市半平太と共に「土佐四天王」と称される虎太郎は、この4人の中では一番年が若く、龍馬より2つ年下になります。
抜群の行動力に加え、頭脳明晰な少年だったと言われており、12才の時に父親が病気を患うと、後を継いで現在の津野町の中部にあった北川村という地域の庄屋を務めることになります。庄屋というのは「村長」のような役目で村に関するあらゆることを取り仕切る、とても重要な役職でした。
世襲制が当然の時代だったとは言え、わずか12歳の少年がいわば「村長」のような庄屋の役職に就くのは当時でも珍しかったことから見ると、虎太郎が非常に優秀な人材だったことが伺えます。
18歳で須崎浦(現 須崎市)の庄屋に赴任した時に、郡役人として赴任していた間崎哲馬に学問を、また高知城下で武市半平太に剣術を習うようになると虎太郎は尊攘思想に傾倒し、土佐勤王党に加わることになります。
天才と言われていた間崎哲馬の門下生には中岡慎太郎や岩崎弥太郎など多くの志士がいましたが、虎太郎はその中でも成績は極めて優秀、志士たちの中でも非常に目立つ存在だったそうです。
そして21歳の時に現在の須崎市にあった下分村の庄屋に転任、23歳で梼原村(現在の梼原町)の大庄屋となりました。虎太郎は庄屋としての仕事に誇りをもち、赴任先では住民の為によく働いたと言われています。
中でも梼原村で虎太郎が作った「石の金庫」は、飢饉などの非常時に村の人を救う為にあつらえたもので、皆が安心してお金を預けられるよう、虎太郎と村の長老が一つずつ鍵を管理し、二人が揃わないと鍵が開けられない仕組みになっていました。虎太郎の危機管理能力、政治能力の高さが感じられるエピソードですよね。
一方、当時の土佐藩では庄屋の力が大きくなり過ぎないよう彼らを頻繁に転勤させていました。これに不満を感じていた庄屋たちは同盟を組んで、藩に待遇の改善を訴えますがなかなか受け入れてもらえず、やがて虎太郎ら庄屋のメンバーたちの間に「庄屋という職業は元々天皇から直接任命されていたものだから、自分達は天皇直属の家臣だ!」という思いが芽生えるようになります。
彼らは当時の武士にとって当たり前だった「藩主への忠誠」よりも「天皇に直接忠誠を誓うこと」を重んじるようになり、これが後の尊皇思想につながっていくことになります。
『新政府を樹立し、明治維新の魁を作った虎太郎』
土佐勤王党員となった虎太郎ですが、一藩勤王を目指し土佐藩をあげて勤王に向かおうとする党首の武市半平太と意見が対立。
ついに1862年3月6日、虎太郎26歳の時に仲間・宮地宜蔵(ぎぞう)と二人で長州、今の山口県へと脱藩します。
かくして土佐藩脱藩第一号となった虎太郎達の行動は土佐の志士たちに大きな衝撃を与え、一説によると、触発された坂本龍馬はその約20日後、同じく土佐を脱藩することとなった、と言われています。
脱藩した翌年、虎太郎は尊皇攘夷派の志士たち約40人からなる「天誅組」の総裁に就任。
天皇が攘夷祈願の為に大和、今の奈良県に行幸するのに先駆け、幕府管轄の代官所を襲撃、天皇の為に新たに「五條御政府」という政治機関を設置しました。
幕府の機関を倒して、いわゆる新政府を築いたことが後に天誅組が「明治維新の魁」と評される由縁となっています。
しかし挙兵の翌日、朝廷内でクーデターが勃発。天皇の行幸が中止となると幕府そして朝廷によって天誅組は逆賊と見なされ、討伐される立場に一転します。
天誅組は敗退を続け、奈良県東吉野村でほぼ壊滅。虎太郎も薪小屋に潜んでいたところを発見され、銃撃を受けて死亡。まだ27歳という若さでした。
同じ土佐藩出身で政治家の田中光顕は虎太郎について、
「愛嬌者であって思い切ったことをやる男、はつらつとした元気者だった」と語っています。
そして最後に、虎太郎の人柄を垣間見ることができる武市半平太の妻・富子の回想を。
富子が「柿」を出すと、
坂本龍馬は遠慮無しに柿をつかんで包丁で勝手にむき、むしゃむしゃ食べる。
中岡慎太郎は、柿をいくらすすめても「かたじけのうござる」と言って一切口にしない。
吉村虎太郎は、出された柿の美味しさをしっかりと褒める、非常に気遣いができる人物で、愛想もよく、三人の中で一番物腰が柔らかい人だったと語っています。
今回は「吉村虎太郎」をご紹介しました。
📝執筆担当のあとがき📝
土佐藩を脱藩した初めての志士で尊王攘夷、新しい国家を作ると言う強い志しのもと幕末の激動の中で散った「吉村虎太郎」
明治新政府と朝廷が維新に貢献した土佐の志士の中から特別に、坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎そして吉村虎太郎の4名に「正四位の位」を贈ったことから「土佐の四傑」の一人に数えられるすごい人物なんです!!
歴史で「たら・れば」はありませんが、頭脳明晰、行動力抜群、政治的能力もずば抜けていた虎太郎が明治以降も生きていたら、どんな世の中になっていたのかな?と考えてしまいます!
津野町にある「吉村虎太郎邸」には古文書やパネル、映像などで虎太郎の生涯と活躍を紹介しています!津野町に行った時にはぜひ立ち寄ってみて下さいね。
RKCのラジオ番組「歴史のなかの土佐人たち」の特設サイトもぜひご覧ください🔻
ついに1862年3月6日、虎太郎26歳の時に仲間・宮地宜蔵(ぎぞう)と二人で長州、今の山口県へと脱藩します。
かくして土佐藩脱藩第一号となった虎太郎達の行動は土佐の志士たちに大きな衝撃を与え、一説によると、触発された坂本龍馬はその約20日後、同じく土佐を脱藩することとなった、と言われています。
脱藩した翌年、虎太郎は尊皇攘夷派の志士たち約40人からなる「天誅組」の総裁に就任。
天皇が攘夷祈願の為に大和、今の奈良県に行幸するのに先駆け、幕府管轄の代官所を襲撃、天皇の為に新たに「五條御政府」という政治機関を設置しました。
幕府の機関を倒して、いわゆる新政府を築いたことが後に天誅組が「明治維新の魁」と評される由縁となっています。
しかし挙兵の翌日、朝廷内でクーデターが勃発。天皇の行幸が中止となると幕府そして朝廷によって天誅組は逆賊と見なされ、討伐される立場に一転します。
天誅組は敗退を続け、奈良県東吉野村でほぼ壊滅。虎太郎も薪小屋に潜んでいたところを発見され、銃撃を受けて死亡。まだ27歳という若さでした。
同じ土佐藩出身で政治家の田中光顕は虎太郎について、
「愛嬌者であって思い切ったことをやる男、はつらつとした元気者だった」と語っています。
そして最後に、虎太郎の人柄を垣間見ることができる武市半平太の妻・富子の回想を。
富子が「柿」を出すと、
坂本龍馬は遠慮無しに柿をつかんで包丁で勝手にむき、むしゃむしゃ食べる。
中岡慎太郎は、柿をいくらすすめても「かたじけのうござる」と言って一切口にしない。
吉村虎太郎は、出された柿の美味しさをしっかりと褒める、非常に気遣いができる人物で、愛想もよく、三人の中で一番物腰が柔らかい人だったと語っています。
今回は「吉村虎太郎」をご紹介しました。
📝執筆担当のあとがき📝
土佐藩を脱藩した初めての志士で尊王攘夷、新しい国家を作ると言う強い志しのもと幕末の激動の中で散った「吉村虎太郎」
明治新政府と朝廷が維新に貢献した土佐の志士の中から特別に、坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎そして吉村虎太郎の4名に「正四位の位」を贈ったことから「土佐の四傑」の一人に数えられるすごい人物なんです!!
歴史で「たら・れば」はありませんが、頭脳明晰、行動力抜群、政治的能力もずば抜けていた虎太郎が明治以降も生きていたら、どんな世の中になっていたのかな?と考えてしまいます!
津野町にある「吉村虎太郎邸」には古文書やパネル、映像などで虎太郎の生涯と活躍を紹介しています!津野町に行った時にはぜひ立ち寄ってみて下さいね。
RKCのラジオ番組「歴史のなかの土佐人たち」の特設サイトもぜひご覧ください🔻

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