「万葉集」の研究に生涯を捧げた国学者・鹿持雅澄~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
「万葉集」の研究に生涯を捧げた国学者・鹿持雅澄~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
2026.07.01
高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。
『日本で最も古い歌集「万葉集」を研究した国学者 』
今回ご紹介するのは「鹿持雅澄(かもち  まさずみ)

鹿持雅澄 万葉集 国学者 鹿持 雅澄 土佐の偉人 かもちまさずみ
<画像提供:高知県立文学館>

日本で最も古い歌集「万葉集」の研究に生涯を捧げた日本を代表する高知県出身の国学者で歌人の鹿持雅澄
1791年・ 寛政3年4月27日、現在の高知市福井町で誕生。父は土佐藩の下級役人を務めていましたが、家はとても貧しかったと言われています。

幼少期の頃の資料はあまり多く残っていませんが、本人の語るところによると「病気がちで、ぼーっとしており、鈍くさく臆病な子どもだった」そうです。

お世辞にも勉強が出来る少年ではなく、彼の両親も先行きを心配していましたが、17歳の頃に「自分が生まれた国の〝古典〟の研究」という目標を持つと、まるで人が変わったように昼夜問わず猛勉強をするように。

漢文や国学を学んで日本古来の精神や思想に触れていく中で鹿持は、「万葉集」に興味を持ちます。

奈良時代末期に成立したと言われる日本最古の歌集「万葉集」には約4500首の歌が収められていますが、古い読み方や言葉が多く含まれている為、1000年近く経った江戸時代の頃には歌の詳しい意味や内容が分からなくなっていました

そんな万葉集の研究に鹿持雅澄は没頭していきます。

25歳の頃には病気の父に代わって土佐藩の下級役人に、そして29歳の頃には土佐藩家老の推薦で藩の学校教授となります。藩校の蔵書を自由に閲覧できるようになったことは、鹿持自身の勉学の進歩に大いに役立ったそうです。

ちょうどその時期に「武市きく」という女性と結婚

妻のきくは非常に働き者で、屋根の雨漏りも直せない苦しい台所事情の鹿持家で、家事全般はもちろん、4人の子どもの養育、そして同居する義理の父の介護、そして夫の仕事と研究を献身的にサポートしました。
『武市半平太と実は親戚!土佐勤皇党の思想にも影響を与えた鹿持雅澄』
そしてこの「きく」の甥〝兄の子ども〟にあたるのが「武市半平太」
土佐勤皇党の党首として幕末の土佐で抜群の存在感を放った人物として知られています。


(画像提供 :高知県立高知城歴史博物館)

半平太をはじめ、多くの土佐の志士たちが鹿持の自宅に通い、日本古来の精神や考え方を重んじる鹿持の思想を学びました

これは後に「尊皇攘夷」を掲げて土佐の一大派閥となった土佐勤皇党の思想にも影響を与えています。

鹿持は、50代半ばでそれまでの国学や歌集の功績が土佐藩に認められ、下級武士でも上級武士の扱いを受けられる「白札(しらふだ)」という身分を与えられます。

そして万葉集の研究をはじめて50年、改訂に改訂を重ねついに鹿持は「万葉集古義」全141巻を執筆するという偉業を成し遂げました

68歳でこの世を去った鹿持雅澄の偉業が全国に知られるようになったのは没後20年ほど経ってからのこと。

明治天皇が、鹿持の万葉集に関する研究を耳にし、これを広く国民に広めるよう宮内省から万葉集古義を「本」として出版してからのことでした。

現在高知県内には鹿持雅澄の歌碑がいくつかありますが、その中の「愛妻の碑」は安芸市の大山岬、そして高知城の杉ノ段の計2カ所に建てられています。

「秋風の福井の里にいもおきて 安芸の大山 超え勝(が)てむかも」

この歌は、鹿持が40歳を過ぎた頃、藩からの命で現在の室戸市に単身赴任した際、里に残した愛する妻を想って大山岬で詠んだ歌。近くを訪れた際は、ぜひご覧になってみてください。

今日は「鹿持雅澄」をご紹介しました。


―執筆担当のあとがき―

小学生の頃、近所でよく見かけていた「鹿持雅澄邸跡」の案内板。
“しかもちさん”かな?と思っていたのが、私の最初の鹿持雅澄の思い出です。

小学校高学年の頃、一度案内板を見て「鹿持雅澄邸跡」を訪れたことがあります。
高知市福井町にある邸跡は今は広い空き地になっていて、古井戸だけが残存。周辺に頌徳碑や墓所が建っています。

千年以上の時を超えて伝わる「万葉集」。その言葉の意味をひとつひとつ丁寧に読み解こうとしたのが、 ほかでもない、この鹿持雅澄です。

当時すでに理解が難しくなっていた古い言葉に向き合い続ける作業は想像以上に地道で、終わりの見えない旅のようなものだったと思います。
それでもなお研究を続け、『万葉集古義』という形にまとめ上げたその情熱には圧倒されます。

また鹿持雅澄の歩みをたどる上で忘れてはならない存在が妻・きくです。

貧しい暮らしの中で家族を支えながら、夫の研究を陰で支え続けたきく。
遠く離れた地から妻を想って詠んだ一首の歌にも、二人の絆の深さが感じられます。

そしてきくの甥が武市半平太で、鹿持雅澄の思想が土佐勤皇党にも大きな影響を与えることになるー
そうしたつながりを知ると、歴史ってやっぱり面白いなぁと改めて感じます。

今回原稿の監修協力をいただいたのが「高知県立文学館」です。
高知城のすぐそば、高知の文学の歴史に触れたい時には、ぜひ訪れてみてください!
『歴史のなかの土佐人たちの特設サイトはこちら』
その他の土佐の偉人を読んで知る!



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