幕末の土佐藩を牽引した政治家・吉田東洋~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
幕末の土佐藩を牽引した政治家・吉田東洋~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
2026.08.01
高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。
『山内容堂のお気に入りの側近だった東洋 土佐藩の重要な職に就任』
今回ご紹介するのは「吉田東洋


(画像提供 高知県立高知城歴史博物館)

幕末の土佐の志士たちに非常に大きな影響を与えた政治家・吉田東洋は1816年・文化13年に現在の高知市帯屋町で生まれました。

本名を正秋(まさあき)、通称を元吉(もときち)と言います。いつから東洋と名乗るようになったのかは分かっていないそうです。

長宗我部の時代から土佐で代々高い地位についていた名家の四男でしたが、兄たちが若くして亡くなった為、東洋は25才の時に父親が他界すると家督を継いで土佐藩の重要な職を担当することになりました。

実行力に富み、頭脳明晰だった吉田東洋。

土佐藩主・山内豊凞(とよてる)、そして15代藩主・山内容堂のお気に入りの側近でした。特に容堂は東洋を高く評価していて「大目付」、さらに藩の政治、経済を取り仕切る・仕置役(しおきやく)という最も重要な職に抜擢しています。


<写真 山内容堂 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」>

というのも、容堂は10才ほど年上だった吉田東洋を非常に尊敬しており、家臣であるにも関わらず常に「(東洋)先生」と呼んでいたほど。自分の羽織を与えて「土佐のことは全て先生にお頼みします」と伝えるほど厚い信頼関係を寄せていたそうですよ。

また大政奉還で大きな役割を果たした「後藤象二郎」も同じく吉田東洋を敬愛していたことで知られています。後藤象二郎は、吉田東洋の義理の甥にあたり、11才で父を亡くした象二郎を東洋が父親代わりとなって養育、象二郎を土佐藩の要職に推薦するほど公私にわたってサポートしました。


<写真 後藤象二郎 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」>

一方、後には、吉田東洋と妻・琴の間に生まれた一人息子「正春(まさはる)」が13才で孤児になりますが、その時手を差し伸べたのがこの「後藤象二郎」

正春を引き取り大切に育て、成長した正春は明治期に外交官として活躍しました。

あまり知られていませんが、吉田東洋と後藤象二郎との間には実はこうしたファミリーとしての
つながりがあったんですね。
『天才ながら、豪腕な手法で敵も味方も多かった吉田東洋』
さて土佐藩で不動の地位を築いていた吉田東洋ですが、1853年(嘉永6年)江戸への参勤交代中、容堂の自宅で開かれた宴席で、容堂の親戚にあたる旗本を殴ってしまうという大事件を起こしてしまいます。

というのも・・・徳川幕府の重臣であるその旗本は酔っ払って、しきりに吉田東洋の頭を殴っていたそう。

しばらく我慢していた東洋もついに激怒。「ワシの頭は容堂様にお仕えする大切なもんじゃ!バチあたりめ!」と叫ぶや否や、旗本の頭を殴りつけ首根っこをつかみ、庭へ放り出したそう・・・。
結果、長浜村、今の高知市長浜で謹慎することになります。

実は吉田東洋、土佐弁で言うところの「かなりのいられ」、非常に短気な人物でした。癇癪持ちで、よく人と争うトラブルメーカーな一面を持っていたんだそうです。

長浜村での謹慎期間中に東洋は儒学の一派で、土佐で生まれた「南学」を指導する塾を自宅で開きます。この塾には土佐の青少年が多く通っていて、その中には後藤象二郎や板垣退助、岩崎弥太郎、谷干城などもいました。


<写真 板垣退助  出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」>


<写真 岩崎弥太郎  出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」>


<写真 谷干城  出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」>

明治の日本を動かした土佐人には吉田東洋の影響を強く受けていた人が多かったんですね。

謹慎が解かれて、再び土佐藩の政治のトップに復帰すると塾の門下生たちを次々と藩の要職に起用

家柄を問わない人材登用や外国との貿易、近代的な軍制改革など革新的だった東洋の主張は、保守派をはじめ、尊皇攘夷を唱える土佐勤皇党からも強い反発を受けます。

当時土佐で一大勢力になっていた土佐勤皇党を東洋は非常に嫌っていたと言われています。

そして1862年5月6日、高知城で日本史の講義を終え、雨の中を帰宅していた夜10時頃、武市半平太の命を受けた土佐勤皇党員3名によって暗殺され、46才でこの世を去りました。


(画像提供 高知県立高知城歴史博物館)

現在の高知市追手筋「オーテピア高知図書館」のすぐ側には「吉田東洋殉難の地」という石碑が建てられています。

天才ながら、豪腕な手法で敵も味方も多かった吉田東洋。
意外にも?派手好きで、いつも赤い縮緬(ちりめん)の長襦袢を着込んで、麝香を懐に入れていた洒落者だったそうですよ。

―執筆担当のあとがき―

土佐藩の志士たちに非常に大きな影響を与えた土佐を代表する政治家「吉田東洋」

吉田東洋は、間違いなく土佐藩の未来を切り開こうとした先見の人だったと思います。その大胆な改革と揺るぎない信念は、多くの人材を惹きつける一方で、強い反発も生みました。

優れた指導者でありながら、激しい気性を持ち、時に周囲と衝突する――
その光と影の両方を併せ持っていたからこそ、東洋という人物はこれほどまでに印象深いのかもしれません。

東洋暗殺を命じたと言われる武市半平太も、山内容堂の怒りを買い切腹を命じられました。
もし東洋が暗殺されることなく生き続けていたなら――
歴史に「もし」はありませんが、土佐藩、そして日本の歴史はどのように変わっていたのかな、と考えてしまいます。

彼が遺した影響は、弟子たちによって形を変えながら、やがて新しい時代をつくる力となっていきました。
吉田東洋という人物は、その礎の一つだったと感じずにはいられません。

今回原稿の監修を協力してくれたのが「高知県立高知城歴史博物館」
山内家の歴史など貴重な資料と共に深く学ぶことができます。

特に幕末の歴史好きの人は一度訪れてみてください!
『歴史のなかの土佐人たちの特設サイトはこちら』
その他の土佐の偉人を読んで知る!



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