姫若子から四国をほぼ統一した武将に!長宗我部元親~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
姫若子から四国をほぼ統一した武将に!長宗我部元親~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
2026.05.09
高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。
『父も悩ませるほど大人しい “姫若子”だった!?』
今回ご紹介するのは、「長宗我部元親」

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(長宗我部元親 初陣之像)

土佐・阿波・伊予・讃岐と四国のほぼ全域を支配した戦国時代を代表する武将「長宗我部元親」は1539年(天文8年)、現在の高知県南国市で誕生。

父は土佐国(とさのくに)岡豊城・城主だった「長宗我部国親(くにちか)」で男4人兄弟の長男として生まれた元親は、幼名を弥三郎(やさぶろう)と名付けられました。

長宗我部という姓、日本でもなかなか珍しい名字ですよね。
一説によると長宗我部氏の先祖は「秦の始皇帝」と言われており、彼の子孫が日本に渡来して帰化した際に「秦(はた)」という名字を名乗るようになったそうです。

鎌倉時代の初めに土佐の長岡郡・宗我部郷に住み着いた秦能俊(よしとし)地名にちなんで「長宗我部」と名字を改めたのが始まりとされています。

少年時代の元親ですが、実はかなり大人しい性格だったそうです。
色白で背が高く、穏やかで物静かであったことから、ついたあだ名が「姫若子(ひめわこ)」

周りからはお姫様のような若君と呼ばれ、うつけ(まぬけ者)なのではないか?と陰口をたたかれる始末。父の国親も「こんな『か弱い』元親が跡継ぎで大丈夫だろうか・・・」と悩んだ時期もあったそうです。

そんな元親が初めて戦に出たのが22才の時。永禄3年・1560年5月末のことでした。
当時は15才前後で初陣を飾る武将たちが多かったことから見ると、かなり遅いデビュー戦となりました。

初戦となる「長浜の戦い」の対戦相手は、当時土佐で最大勢力を誇っていた本山氏
長宗我部軍1000の兵に対して、本山軍の兵は倍以上の2500で明らかに形勢は不利でした。周囲からの期待が薄かった元親でしたが、いざ戦が始まると、わずか五十騎を引き連れて自らが先頭に立ち、猛然と敵陣に突き進んで槍で敵をどんどんと倒す活躍ぶりで初陣を見事勝利でおさめました。

この活躍を機に「姫若子」という不名誉なあだ名で呼ぶ人はいなくなり、父の国親も「この合戦での元親の振る舞いは立派であり、私も安心である」と絶賛したそうです。

また高知市長浜の若宮八幡宮の境内にある「長宗我部元親 初陣之像」は合戦に挑む前夜に陣取ったのがこの地だったことにちなんでおり、力強く前に伸ばされた左手は、足下に広がる四国をつかみ取ろうとしている形に作られています。

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(高知市長浜にある長宗我部元親 初陣之像)
『四国をほぼ統一!もてなし上手な一面もあった元親』
長浜の戦いが起こった年(1560年・元親22歳の時)、父の国親が亡くなると家督を継いだ元親は土佐の豪族たちを制圧し、徐々に勢力を拡大していきます。その際に兄の元親をよく支え、元親の良き相談相手となったのが弟の吉良親貞(きら ちかさだ)と香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす)です。

ところで弟2人の名字が長宗我部ではなく、しかもバラバラな理由は?と言うと。

長浜の戦いの対戦相手だった本山氏が滅ぼした土佐・吾川郡の有力勢力・吉良氏を復興させるために親貞(ちかさだ)が、そして安芸郡の有力勢力である安芸氏に抵抗をするため香美郡の有力勢力・香宗我部氏に親泰(ちかやす)が、それぞれ婿養子に入ったため。



こうして有力な家の跡取りに弟達や息子達を養子入りさせることで元親は家督相続から約15年の歳月をかけて土佐国を統一していく足がかりとし、さらに阿波、伊予の半分、讃岐の半分を攻略して、ほぼ四国を統一します。

が、その直後、豊臣秀吉の四国征伐に敗れて土佐一国の大名に戻りました。

秀吉の家臣となってすぐに九州出兵の命を受け出征。この時の戦で最愛の長男・信親(のぶちか)が戦死したことは長宗我部氏の前途に大きな影響を与えることになります。

元親は跡継ぎに戦死した長男と母親が同じ四男の盛親(もりちか)を指名し、盛親の妻に信親の娘を据えます。これに反対する者は例え身内であろうと切腹を命じるなど強引な粛正を断行していきます。これが長宗我部家滅亡の原因の一つとなってしまいました。

そして元親にはこんな逸話も。
土佐の領民からはもちろん、家臣からも大きな反発を受けたのが領内で公布した「禁酒令」。しかし酒好きだった元親、自らが禁酒令を出したにも関わらず、こっそりと商人から酒樽を購入していたのを家臣に見つかってしまい、すぐに禁酒令は撤回された・・・という、なんとも高知らしいエピソードが残っています。

また、浦戸湾に迷い込んだ約17mの巨大クジラを捕獲するとそのまま船で大阪まで運んで秀吉に献上するというド派手なパフォーマンスで主君を喜ばせるなど、もてなし上手だった一面もあるそうです。

政治・軍事だけでなく仏教や儒学を重んじ、和歌や茶道などの教養も深かった元親は61才の時に京都で死去。今は高知市長浜に建てられた墓所で眠っています。

今日は「長宗我部元親」についてご紹介しました。

★執筆担当者のあとがき★

土佐の出来人と評される「長宗我部元親」

出来人の由来は、小さな土佐の国の領主に過ぎなかった元親が、破竹の勢いで四国全土を席巻し、大名へと成長していった様子を表す言葉です。(出来人=とてつもない人物、抜きん出た者)。

最近はゲームなどの影響で若い世代にも知名度が高く、男女問わず人気も非常に高い、戦国時代を代表する武将の1人となりました。

そんな元親、幼い頃のあだ名は「姫若子」。美形だからこその呼び名だったかと思いきや、その実、父・国親をも悩ますほどの物静かさから付けられたものでした。一国の主に据えるには大人し過ぎる性格だったようですが、22歳で迎えた初陣で目覚ましい活躍を見せ、「鬼若子」と呼ばれるようになります。

戦死した元親の長男・信親は、非常に聡明で家臣団からの人望も厚い、「完璧な後継者」だったと言われています。全幅の信頼を置いていた信親の死によって元親は迷走し、四男の盛親を強引に後継者に据えたことで家中に亀裂が生じました。そのことは、後の長宗我部家滅亡の遠因の一つになったとも考えられています。
それでも、領内の土地調査(検地)を徹底し、分国法を整備するなど、近世的な統治の基礎を築いた点から見ても、元親が領主として非常に有能な人物だったことは間違いなさそうです。

記事内でも紹介した「長宗我部元親 初陣之像」は、筆者が個人的に一番かっこいいと思っている銅像です!



キリっとした表情と凛とした立ち姿は、四国をつかみ取ろうとする若き日の元親の決意を見事に表現しています。



高知県屈指の景勝地・桂浜へ向かう道中にあるので、ぜひ立ち寄ってみてください。



ちなみに元親の墓所は初陣之像から車で5分ほどの場所にあります。今回初陣之像の写真を撮りに行った帰りに寄ってみました。





道路から墓所へ入る道は少し狭めですが、入り口には参拝者用の駐車スペースもありました。
階段が急なので足元にご注意!





天甫寺山(てんぽじやま)の中腹にある墓所は四国統一の拠点とした浦戸城があった場所のすぐ近く。
四男の盛親が建立したと言われる宝篋印塔が立っています。



また、原稿の監修にご協力いただいた南国市の「高知県立歴史民俗資料館」では、元親の歴史を数多くの貴重な資料とともに学ぶことができます。こちらにも元親像があり、一緒に写真を撮ることも可能です。
歴史ファンの方は、ぜひ足を運んでみてくださいね!
『歴史のなかの土佐人たちの特設サイトはこちら』
その他の土佐の偉人を読んで知る!



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