
実は謎が多い!山内一豊の妻・見性院~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
2026.04.13
高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。
『内助の功で知られる一豊の妻は実は謎が多い!?』
今回ご紹介するのは 山内一豊の妻「見性院(けんしょういん)」

<画像提供 高知城歴史博物館>
土佐藩の初代藩主・山内一豊(かつとよ)の妻「見性院」。一般には「千代」の名前で知られていますが「まつ」だったという説もあり本当の名前が分かっていないという意外な事実があります。
見性院が誕生したのは弘治3年、1557年で夫・山内一豊より12歳年下。
出身地は山内家の伝承によると近江国、今の滋賀県で浅井長政の家臣・若宮氏の娘として誕生したとされていますが、近年の研究では美濃国、岐阜県の郡上(ぐじょう)にあった八幡城(はちまんじょう)の城主・遠藤氏の娘だったという説も有力視されておりこちらも名前同様、確かなことは分かっていません。
夫・一豊の結婚の馴れ初めは、一説によると一豊の母親の推薦と言われています。
近江国にいた一豊の母は近所の子供たちに裁縫や行儀作法を教えており、その中に後に一豊の妻になる見性院がいて、利発だった彼女を息子の嫁に推したそうです。
1570年代前半に二人は結婚。当時見性院は10代半ば、一豊は30歳前後でした。
一豊は1585年に近江長浜城の城主となりますが、翌年、中部地方で発生した長浜大地震により城は全壊。二人にとっての唯一の実子で、当時6歳だった娘の与祢(よね)はこの地震で亡くなっています。
与祢の墓所は京都にある妙心寺にありますが、二人が娘の墓参りに訪れた際、寺に捨てられた子どもを見つけ、その子を「拾(ひろい)」と名付けて養子とし非常に可愛がったようです。
拾は後に出家して「湘南」という名の僧侶となり、現在も高知市にある吸江寺(ぎゅうこうじ)の再興に務めました。
さて、見性院と言えば「内助の功」で知られていますが、一番有名なのは「名馬購入」の逸話ではないでしょうか。
城下町で、またと無い名馬を見つけた一豊でしたが、値段が高く買うのをあきらめます。
家に帰ってその話を妻にしたところ、見性院は鏡箱の底から大金を取り出し夫に手渡しました。一豊はその金で名馬を購入、ほどなく織田信長が開催した「馬揃え」いわゆる軍事パレードでその馬が信長の目に留まり出世の糸口をつかんだ、という話です。

<高知城にある山内一豊の妻の銅像 通称「千代像」 馬は愛馬の太田黒>
その良妻ぶりは戦前の教科書にも掲載され広く知られる美談となりましたが、購入時期や金額、お金の出所、はたまた本当に馬を購入したのかは実は正確には分かっていないそうです。
しかし他にも得意だった裁縫で作った着物が秀吉に気に入られた、枡(ます)の裏をまな板がわりに使って節約に努めた、黒髪を切ってお金にかえて家計を支えたなど、見性院の良き妻ぶりを伝える言い伝えが多く残っています。堅実で賢い、しっかり者の女性だったんでしょうね。

<画像提供 高知城歴史博物館>
土佐藩の初代藩主・山内一豊(かつとよ)の妻「見性院」。一般には「千代」の名前で知られていますが「まつ」だったという説もあり本当の名前が分かっていないという意外な事実があります。
見性院が誕生したのは弘治3年、1557年で夫・山内一豊より12歳年下。
出身地は山内家の伝承によると近江国、今の滋賀県で浅井長政の家臣・若宮氏の娘として誕生したとされていますが、近年の研究では美濃国、岐阜県の郡上(ぐじょう)にあった八幡城(はちまんじょう)の城主・遠藤氏の娘だったという説も有力視されておりこちらも名前同様、確かなことは分かっていません。
夫・一豊の結婚の馴れ初めは、一説によると一豊の母親の推薦と言われています。
近江国にいた一豊の母は近所の子供たちに裁縫や行儀作法を教えており、その中に後に一豊の妻になる見性院がいて、利発だった彼女を息子の嫁に推したそうです。
1570年代前半に二人は結婚。当時見性院は10代半ば、一豊は30歳前後でした。
一豊は1585年に近江長浜城の城主となりますが、翌年、中部地方で発生した長浜大地震により城は全壊。二人にとっての唯一の実子で、当時6歳だった娘の与祢(よね)はこの地震で亡くなっています。
与祢の墓所は京都にある妙心寺にありますが、二人が娘の墓参りに訪れた際、寺に捨てられた子どもを見つけ、その子を「拾(ひろい)」と名付けて養子とし非常に可愛がったようです。
拾は後に出家して「湘南」という名の僧侶となり、現在も高知市にある吸江寺(ぎゅうこうじ)の再興に務めました。
さて、見性院と言えば「内助の功」で知られていますが、一番有名なのは「名馬購入」の逸話ではないでしょうか。
城下町で、またと無い名馬を見つけた一豊でしたが、値段が高く買うのをあきらめます。
家に帰ってその話を妻にしたところ、見性院は鏡箱の底から大金を取り出し夫に手渡しました。一豊はその金で名馬を購入、ほどなく織田信長が開催した「馬揃え」いわゆる軍事パレードでその馬が信長の目に留まり出世の糸口をつかんだ、という話です。

<高知城にある山内一豊の妻の銅像 通称「千代像」 馬は愛馬の太田黒>
その良妻ぶりは戦前の教科書にも掲載され広く知られる美談となりましたが、購入時期や金額、お金の出所、はたまた本当に馬を購入したのかは実は正確には分かっていないそうです。
しかし他にも得意だった裁縫で作った着物が秀吉に気に入られた、枡(ます)の裏をまな板がわりに使って節約に努めた、黒髪を切ってお金にかえて家計を支えたなど、見性院の良き妻ぶりを伝える言い伝えが多く残っています。堅実で賢い、しっかり者の女性だったんでしょうね。
『政治的感覚の鋭さ、頭の回転の速さが光る!夫の出世を助けた賢妻』
そしてこれらの逸話の中でも一豊の大出世につながったのが「笠の緒の密書」の話です。
関ヶ原の戦いの直前、大阪にいた見性院は、石田三成からの「豊臣側に加勢するように」と書かれた書状と、自分が書いた「家康様に忠誠を尽くすように」という内容の手紙二通を箱に入れて、関東地方にいた一豊の元へ送りました。
そしてもう一通、密書としてこの箱を届けた使者の笠の緒に手紙を編み込み、そこには「箱は開けぬまま家康に渡すように」と書いていました。一豊がその通りにした結果、家康は大阪の状況をいち早く知ることができたと同時に、妻からの手紙を開けずに自分に預けた一豊の忠誠心を高く評価しました。
一豊は関ヶ原の戦場では目立った活躍はありませんでしたが、家康からの絶大な信頼を勝ち得たことで、土佐20万石という破格の待遇を受けることができたのです。
見性院は政治的感覚の鋭さ、頭の回転の速さも持ち合わせていたことをうかがい知れるエピソードで、二人は最強のビジネスパートナーだったとも言えますよね。
後継者には、甥で養子の忠義(ただよし)を指名。
見性院は一豊の死後、京都で読書と念仏三昧の日々を送りながら61歳で他界、奇しくも一豊と同い年でこの世を去りました。
墓所である京都の妙心寺にあるお堂の中にはほぼ同じ形・大きさの石のお墓が二つ並んで建立されています。一つは見性院の墓石、そしてもう一つの墓石の下には土佐から分骨された夫・一豊の骨が埋葬されています。
今回は土佐藩初代藩主・山内一豊の妻、見性院をご紹介しました。
【原稿監修協力 高知県立高知城歴史博物館】
●執筆担当のあとがき●
「えっ!? 千代じゃないの!?」
山内一豊の妻について書こうとしたとき、まず衝撃だったのは、本当の名前が分かっていないことでした(「まつ」だったという説もあります)。
生まれた場所もはっきりせず、実はとても謎の多い女性なんです。
土佐藩初代藩主・山内一豊の妻、見性院。
彼女には「内助の功」を物語る逸話が数多く残されています。中には真相不明なものもありますが、一豊の活躍の陰に賢妻の存在があったことは、間違いなさそうです。
そして、もう一つ驚かされたのが、一豊が生涯側室を持たなかったという点です。
側室を持つことが珍しくなかった時代にあって、二人三脚で生涯を歩んだ一豊と見性院の絆は、相当深いものだったのだろうと感じます。
土佐藩の幕開けに欠かせない存在、見性院。
高知城では、「山内一豊の妻の銅像」として、愛馬・太田黒とともにその姿を見ることができます。
また高知城すぐそばにある高知城歴史博物館では山内家の歴史を知ることもできます。
貴重な資料も色々と展示されています。ぜひ訪れてみてくださいね!

関ヶ原の戦いの直前、大阪にいた見性院は、石田三成からの「豊臣側に加勢するように」と書かれた書状と、自分が書いた「家康様に忠誠を尽くすように」という内容の手紙二通を箱に入れて、関東地方にいた一豊の元へ送りました。
そしてもう一通、密書としてこの箱を届けた使者の笠の緒に手紙を編み込み、そこには「箱は開けぬまま家康に渡すように」と書いていました。一豊がその通りにした結果、家康は大阪の状況をいち早く知ることができたと同時に、妻からの手紙を開けずに自分に預けた一豊の忠誠心を高く評価しました。
一豊は関ヶ原の戦場では目立った活躍はありませんでしたが、家康からの絶大な信頼を勝ち得たことで、土佐20万石という破格の待遇を受けることができたのです。
見性院は政治的感覚の鋭さ、頭の回転の速さも持ち合わせていたことをうかがい知れるエピソードで、二人は最強のビジネスパートナーだったとも言えますよね。
後継者には、甥で養子の忠義(ただよし)を指名。
見性院は一豊の死後、京都で読書と念仏三昧の日々を送りながら61歳で他界、奇しくも一豊と同い年でこの世を去りました。
墓所である京都の妙心寺にあるお堂の中にはほぼ同じ形・大きさの石のお墓が二つ並んで建立されています。一つは見性院の墓石、そしてもう一つの墓石の下には土佐から分骨された夫・一豊の骨が埋葬されています。
今回は土佐藩初代藩主・山内一豊の妻、見性院をご紹介しました。
【原稿監修協力 高知県立高知城歴史博物館】
●執筆担当のあとがき●
「えっ!? 千代じゃないの!?」
山内一豊の妻について書こうとしたとき、まず衝撃だったのは、本当の名前が分かっていないことでした(「まつ」だったという説もあります)。
生まれた場所もはっきりせず、実はとても謎の多い女性なんです。
土佐藩初代藩主・山内一豊の妻、見性院。
彼女には「内助の功」を物語る逸話が数多く残されています。中には真相不明なものもありますが、一豊の活躍の陰に賢妻の存在があったことは、間違いなさそうです。
そして、もう一つ驚かされたのが、一豊が生涯側室を持たなかったという点です。
側室を持つことが珍しくなかった時代にあって、二人三脚で生涯を歩んだ一豊と見性院の絆は、相当深いものだったのだろうと感じます。
土佐藩の幕開けに欠かせない存在、見性院。
高知城では、「山内一豊の妻の銅像」として、愛馬・太田黒とともにその姿を見ることができます。
また高知城すぐそばにある高知城歴史博物館では山内家の歴史を知ることもできます。
貴重な資料も色々と展示されています。ぜひ訪れてみてくださいね!


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