幕末に散った土佐藩の志士たちのリーダー武市半平太~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
幕末に散った土佐藩の志士たちのリーダー武市半平太~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
2026.04.07
高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。
『幕末に散った土佐の志士 土佐勤王党を組織し「尊王攘夷」を目指した半平太』
今回ご紹介するのは「武市半平太」


画像提供:高知県立高知城歴史博物館

武市瑞山(ずいざん)の名前でも知られていますが、本名は「武市 小楯(こたて)」と言います。
土佐勤王党を組織し「尊王攘夷」を目指した人物です。
尊皇攘夷とは、幕末に広まった政治的な思想で簡単に言うと「幕府ではなく天皇を中心とした強い国家を形成して外国勢を追い払おう!」というものです。

武市半平太は1829年・文久12年9月27日、現在の高知市仁井田で誕生。
板垣退助とは親戚、坂本龍馬とは遠縁にあたり、龍馬よりも6才年上でした。

学問・武芸に優れていただけでなく、歌をよんだり、美人画も得意と才能溢れる人物でしたが、歌だけは非常に下手だった、という家族の回想が残されています。

また土佐人では珍しい下戸で甘い物好き、身長は約180センチ、色白で鼻も高く、なかなかの美形だったと言われています。ただ、アゴが角張って長めだったことから、坂本龍馬からは土佐弁でアゴを意味する「アギ」と呼ばれていたそうです。

いわゆる高スペックでイケメンだった半平太ですが、生涯妻一筋だった愛妻家としても有名です。亡くなるまでに妻の富子に送った手紙の数は200を超えていて、その中には「投獄された際の慰みにもらった花をあなたと思ってすごしています」とまるで恋文のような手紙もあるほど。

半平太が妻の叔父と共に開いた剣術道場があった高知市菜園場の横堀公園には夫婦仲の良かった2人を偲ぶ「夫婦石」が置かれています。

半平太は剣術の腕前が高く、彼を慕う人も多かった為、道場は100人以上の門下生で賑わっていたそうです。その中には中岡慎太郎や岡田以蔵らも在籍していました。半平太はとにかく真面目、喜怒哀楽をほとんど表に出さない性格で、皆から尊敬の意味を込めて「先生」と呼ばれるほど人気のあった人物でした。
『多くの人にその人柄を愛された半平太の最期』
26才の頃、剣術修行で江戸へ出ると長州藩の桂小五郎など尊王攘夷派の志士と親交を深め、見聞を広めていった半平太は江戸への留学中に坂本龍馬や中岡慎太郎など土佐藩の志士を集めて、「土佐勤王党」を結成します。

下級武士たちが多く参加し、総員数は190名を超える土佐藩でも一大勢力となっていきました。

実はこの土佐勤王党の結成の動機は、将軍の跡継ぎ問題に口を挟んだことで幕府から隠居に追い込まれた前の土佐藩主・山内容堂を擁護することでした。


<写真 山内容堂 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」>

容堂は尊皇思想を持ちながらも徳川幕府の存続を誰よりも願っており「朝廷と幕府が協力して強い日本をつくっていこう」という「公武合体論」を掲げていた人物です。

半平太は幕府の崩壊を望んではいませんでしたが、あくまで尊王、天皇が一番だったのに対し、容堂には幕府が一番!という想いが強くあった為、二人はやがて対立していきます。

半平太はまず、敵対していた山内容堂の右腕「吉田東洋」を勤王党員に暗殺させます。


<吉田東洋 画像提供:高知県立高知城歴史博物館>

この暗殺は容堂の実の弟である山内豊誉(とよたか)達にも支持されたことでもありました。

これを機に半平太は藩の中心に入り込み、要職に昇進、下級武士から上級武士になるという異例の大抜擢を受けています。

ですが、世間で優勢だった尊王攘夷派の弾圧事件が京都で起こったのを機に土佐藩でも勤王党への弾圧が行われ、半平太は多くの同志と共に捕らえられてしまいます。

半平太を慕う人達から、続々と釈放を願う嘆願書が出されましたが山内容堂は「君主に対する不敬行為」という罪で半平太に切腹を命じました。

1865年・慶応元年5月、半平太は今まで誰も成し遂げたことの無かったと言われる「三文字割腹法」で自らの腹を切ったと伝えられています。

2年近い獄中生活の中でその人柄を愛された半平太に対し、監視役の番人達も同情的で妻・富子からの弁当や手紙の受け渡しを仲介したり、半平太に時々絵を描いてもらっていました。

享年36、当時の切腹場所付近、高知市帯屋町のひろめ市場近くには「武市瑞山先生殉節の地」という記念碑が建てられています。

ちなみに、須崎市のスカイラインに高さ約3mの武市半平太の銅像がありますが、これ実は2代目。初代の銅像がものすごい頭でっかちでアゴが極端に長く、似てない!と非常に不評。

下の写真は初代の武市半平太像。





<1979年に建立された初代の像 RKC高知放送で放送したニュースのアーカイブ映像より>

銅像製作者本人も出来が不満だったようで完成からわずか6年後に再建活動に入った、日本で唯一作り直された銅像と言われています。



2代目はキリっと精悍な顔つきに!体つきもたくましくなりました。


<武市半平太像 清掃の様子 RKC高知放送ニュースより 2024年6月放送>

今回は武市半平太をご紹介しました!

★執筆担当者のあとがき★

土佐勤皇党と聞けば、幕末の歴史に通じている人であれば一度は耳にしたことのある名前だと思います。
その土佐勤皇党を立ち上げたのが、武市半平太(瑞山)です。

個人的に、知っているようでいて意外と詳しくは知らなかった人物の一人でした。
土佐勤皇党結成の動機が、前土佐藩主・山内容堂の擁護にあったということは、恥ずかしながら今回初めて知りました。

土佐勤皇党の盟主、いわゆるリーダー的存在だった半平太は、どちらかといえば激しい性格だったのではないか――
(あくまで私の勝手なイメージですが)そんな印象を持っていました。

しかし実際には、喜怒哀楽をほとんど表に出さない人物だったといわれています。これもまた意外でした。

投獄中、監視役の番人たちが半平太に同情的だったというエピソードからも、彼の人間性の高さがうかがえます。

やがて半平太は、山内容堂から切腹を命じられ、土佐勤皇党も壊滅に追い込まれてしまいます。
しかし維新後、容堂は優秀な人材であった半平太を処刑したことを、非常に悔やんでいたそうです。

ひろめ市場の近くには「武市瑞山先生殉節の地」がありますので、近くを訪れた際には、ぜひ立ち寄ってみてはいかがでしょうか!
『歴史のなかの土佐人たちの特設サイトはこちら』
その他の土佐の偉人を読んで知る!



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