
土佐の産業を大きく発展させた政治家・野中兼山~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
2025.08.26
高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。
『土佐藩の発展に貢献!後免町の名前の由来は野中兼山』
今回ご紹介するのは「野中兼山」(のなか けんざん)

撮影場所:兼山の郷公園(高知市春野町)
土佐の歴史の中でも有数の政治家と呼ばれる野中兼山は元和(げんな)元年、江戸時代初期の1615年に播磨国・姫路、今の兵庫県姫路市で誕生しました。
高知県内の小学校では「用水路の整備を行って、港を作り土佐を発展させた人物」として授業でも取り上げられるほど、県民には馴染みの深い人物です。
野中兼山が土佐にやってきたのは父親が他界した4歳の頃。
父方の祖母が土佐藩の初代藩主・山内一豊の妹だった縁を頼り、母と共に土佐へ移り住みます。
藩の役人の目に留まるほど幼い頃から秀才の誉れが高く、土佐藩で奉行職を務めていた叔父の野中直継(なおつぐ)は、13歳の野中兼山を娘と結婚させて養子縁組みをしています。
17歳の頃には養父と同じ奉行職に就いて政治家に。
野中兼山は強い意思と信念、行動力、さらに山内家の血縁という家柄で二代目藩主・山内忠義から絶大な信頼を得て、21歳の若さで藩の政治を取り仕切る「総奉行」に就任し、次々と改革を行っていきます。
兼山がまず取り組んだのは県内各地の港の改修と堤防の建設です。船や家屋を台風などの暴風雨被害から守ることで漁業は盛んになり、その後カツオの一本釣りや、捕鯨など土佐の一大産業に発展していきました。
河川には堰(せき)を築き、土木治水事業を行って多くの新田の開発に取り組みます。高知県内には物部川や仁淀川など流量の豊かな川が多くありますが、それらは時に氾濫を起こし、下流は荒れ地となっていました。
そこで川をせきとめて田畑を開墾し、新たに町を作って経済を発展させようとしたのです。
その一つが、現在の南国市の後免町。
ここに移住した人は年貢や税金が免除される、いわゆる経済特区で町の名前「後免」はこの政策が由来となっています。

撮影場所:兼山の郷公園(高知市春野町)
土佐の歴史の中でも有数の政治家と呼ばれる野中兼山は元和(げんな)元年、江戸時代初期の1615年に播磨国・姫路、今の兵庫県姫路市で誕生しました。
高知県内の小学校では「用水路の整備を行って、港を作り土佐を発展させた人物」として授業でも取り上げられるほど、県民には馴染みの深い人物です。
野中兼山が土佐にやってきたのは父親が他界した4歳の頃。
父方の祖母が土佐藩の初代藩主・山内一豊の妹だった縁を頼り、母と共に土佐へ移り住みます。
藩の役人の目に留まるほど幼い頃から秀才の誉れが高く、土佐藩で奉行職を務めていた叔父の野中直継(なおつぐ)は、13歳の野中兼山を娘と結婚させて養子縁組みをしています。
17歳の頃には養父と同じ奉行職に就いて政治家に。
野中兼山は強い意思と信念、行動力、さらに山内家の血縁という家柄で二代目藩主・山内忠義から絶大な信頼を得て、21歳の若さで藩の政治を取り仕切る「総奉行」に就任し、次々と改革を行っていきます。
兼山がまず取り組んだのは県内各地の港の改修と堤防の建設です。船や家屋を台風などの暴風雨被害から守ることで漁業は盛んになり、その後カツオの一本釣りや、捕鯨など土佐の一大産業に発展していきました。
河川には堰(せき)を築き、土木治水事業を行って多くの新田の開発に取り組みます。高知県内には物部川や仁淀川など流量の豊かな川が多くありますが、それらは時に氾濫を起こし、下流は荒れ地となっていました。
そこで川をせきとめて田畑を開墾し、新たに町を作って経済を発展させようとしたのです。
その一つが、現在の南国市の後免町。
ここに移住した人は年貢や税金が免除される、いわゆる経済特区で町の名前「後免」はこの政策が由来となっています。
『産業を発展させた優れた政治家の意外な言い伝え』
また当時土佐で課題だったのは前の領主を慕う長宗我部派と新たに土佐に来た山内派の間で起こっていた抗争の鎮圧でした。
そこで野中が考えたのが「郷士制度」の活用です。藩の上級武士は、山内家と共に土佐に入ってきた人々が中心です。土佐藩は長宗我部の旧臣達を彼らに次ぐ身分の「郷士」として取り立てて、不満を解消しようとしました。
兼山はこの郷士登用の制度を積極的に活用し、新田を開発した功績として領地と郷士の身分を与える政策を行いました。
郷士達が自ら開拓した新田を給料にあてることが出来たので、土佐藩としては財政を圧迫せずに人材登用と新田開発を推し進めることができ、さらに長宗我部派を取り込むことで国内の治安を保つことにも成功しました。この郷士制度により荒れ地が次々と開墾され、土佐の米の収穫高は劇的に増加していきます。
そして藩の大きな財源だった林業は過度な伐採から守るため、成木のみを伐採し若い木を保存する制度を作り、植林を推奨しました。
そんな野中の先見性を感じられる「ハマグリ」の言い伝えが残されています。
江戸へ出向いていた野中が「土佐には無いハマグリという美味しい貝を持ち帰る」という手紙を土佐に送ります。
人々は帰りを楽しみにし、浦戸湾で出迎えますが帰り着いた野中は、皆の前で船一杯に積んでいたハマグリをそのまま海に捨ててしまいます。
驚く彼らに、「これはあなた方の子どもや孫へのお土産です」と言い、その後土佐ではハマグリの養殖が行われるようになった、という話です。目先のことだけでなく100年先を見据えた取り組みを野中は考えていた、というエピソードですよね。
また教育の普及や米の価格の安定化、天然痘患者専用の介護施設の建設など社会的な取り組みも多く行いました。
野中兼山は30年近く土佐藩で実権を握りましたが、数々の改革の成功の裏には農民たちに強いた過酷な労働がありました。さらに急進的で独裁的なやり方と、本人の短気で激しい性格は、藩の重役たちからも反感を買い、藩主が三代目になると弾劾され、失脚します。
その後間もなく、兼山は急死。
子どもたちを含む家族全員、直系が断絶するまでの40年間、高知県の西部・宿毛市で幽閉されるという悲劇的な結末を迎えています。
ただ、兼山のこれらの大改革によって土佐で多くの産業が生まれ、経済が飛躍的に発展したことで、幕末に土佐藩が強い存在感を示し、日本の歴史にも大きな爪痕を残した、と言えるでしょうね。
今回「野中兼山」をご紹介しました。
【原稿監修協力 高知県立高知城歴史博物館】
📝執筆担当のあとがき📝
『野中兼山』この名前は高知で小学校時代を過ごした人は、ほぼほぼ聞いたことのある名前だと思います。
あまり他県では有名ではないかもしれませんが、土佐の経済の基盤となる一次産業の発展に大きく貢献したことで知られています。
21歳で総奉行という異例のスピード出世!さらに藩の実権を握ったのは30年近く!
土佐藩の歴史に欠かすことのできない人物です。
カツオの一本鶴りや捕鯨が盛んになったのも、兼山が港の改修、堤防の建設を進めたことがきっかけ。
高知県の手結内(ていない)港は兼山が江戸初期に築いた港で、実は日本初の本格的「堀り込み港」!建設から360年以上経った今も建設当時の岸壁が残されています。
物部川は高低差の大きい急流で当時、暴れ川として知られていたそう。治水工事には苦労したようで完成までに26年かかっています。
兼山が失脚した後、家族は40年近く幽閉されるという不遇に見舞われています。
兼山の娘・婉は40代で釈放された後は医者に。彼女は日本初の女医だったとも言われていて次回は「野中 婉」を執筆したいと思っています。
最後までご覧いただきありがとうございました!
今回、監修を協力してくれた高知城歴史博物館では、野中兼山とも縁の深い、土佐藩主・山内家についても色々と勉強できるので、ぜひ足を運んでみて下さい!
そこで野中が考えたのが「郷士制度」の活用です。藩の上級武士は、山内家と共に土佐に入ってきた人々が中心です。土佐藩は長宗我部の旧臣達を彼らに次ぐ身分の「郷士」として取り立てて、不満を解消しようとしました。
兼山はこの郷士登用の制度を積極的に活用し、新田を開発した功績として領地と郷士の身分を与える政策を行いました。
郷士達が自ら開拓した新田を給料にあてることが出来たので、土佐藩としては財政を圧迫せずに人材登用と新田開発を推し進めることができ、さらに長宗我部派を取り込むことで国内の治安を保つことにも成功しました。この郷士制度により荒れ地が次々と開墾され、土佐の米の収穫高は劇的に増加していきます。
そして藩の大きな財源だった林業は過度な伐採から守るため、成木のみを伐採し若い木を保存する制度を作り、植林を推奨しました。
そんな野中の先見性を感じられる「ハマグリ」の言い伝えが残されています。
江戸へ出向いていた野中が「土佐には無いハマグリという美味しい貝を持ち帰る」という手紙を土佐に送ります。
人々は帰りを楽しみにし、浦戸湾で出迎えますが帰り着いた野中は、皆の前で船一杯に積んでいたハマグリをそのまま海に捨ててしまいます。
驚く彼らに、「これはあなた方の子どもや孫へのお土産です」と言い、その後土佐ではハマグリの養殖が行われるようになった、という話です。目先のことだけでなく100年先を見据えた取り組みを野中は考えていた、というエピソードですよね。
また教育の普及や米の価格の安定化、天然痘患者専用の介護施設の建設など社会的な取り組みも多く行いました。
野中兼山は30年近く土佐藩で実権を握りましたが、数々の改革の成功の裏には農民たちに強いた過酷な労働がありました。さらに急進的で独裁的なやり方と、本人の短気で激しい性格は、藩の重役たちからも反感を買い、藩主が三代目になると弾劾され、失脚します。
その後間もなく、兼山は急死。
子どもたちを含む家族全員、直系が断絶するまでの40年間、高知県の西部・宿毛市で幽閉されるという悲劇的な結末を迎えています。
ただ、兼山のこれらの大改革によって土佐で多くの産業が生まれ、経済が飛躍的に発展したことで、幕末に土佐藩が強い存在感を示し、日本の歴史にも大きな爪痕を残した、と言えるでしょうね。
今回「野中兼山」をご紹介しました。
【原稿監修協力 高知県立高知城歴史博物館】
📝執筆担当のあとがき📝
『野中兼山』この名前は高知で小学校時代を過ごした人は、ほぼほぼ聞いたことのある名前だと思います。
あまり他県では有名ではないかもしれませんが、土佐の経済の基盤となる一次産業の発展に大きく貢献したことで知られています。
21歳で総奉行という異例のスピード出世!さらに藩の実権を握ったのは30年近く!
土佐藩の歴史に欠かすことのできない人物です。
カツオの一本鶴りや捕鯨が盛んになったのも、兼山が港の改修、堤防の建設を進めたことがきっかけ。
高知県の手結内(ていない)港は兼山が江戸初期に築いた港で、実は日本初の本格的「堀り込み港」!建設から360年以上経った今も建設当時の岸壁が残されています。
物部川は高低差の大きい急流で当時、暴れ川として知られていたそう。治水工事には苦労したようで完成までに26年かかっています。
兼山が失脚した後、家族は40年近く幽閉されるという不遇に見舞われています。
兼山の娘・婉は40代で釈放された後は医者に。彼女は日本初の女医だったとも言われていて次回は「野中 婉」を執筆したいと思っています。
最後までご覧いただきありがとうございました!
今回、監修を協力してくれた高知城歴史博物館では、野中兼山とも縁の深い、土佐藩主・山内家についても色々と勉強できるので、ぜひ足を運んでみて下さい!

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