
後藤象二郎~土佐の偉人コラム「歴史のなかの土佐人たち」~
2025.07.01
RKCラジオで毎週火曜日午後5:15から放送中の「歴史のなかの土佐人たち」
高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。
ぐるぐるこうちでは、放送には入りきらずカットした部分も含めて紹介します!
高知に縁のある武将や政治家、実業家、学者、作家などの偉人、有名人は、どんな人物だったのか?諸説ありますが、伝記や言い伝えを元に短くまとめたプロフィール、そして意外と知られていないエピソードなども交えて毎回一人ずつ紹介しています。
ぐるぐるこうちでは、放送には入りきらずカットした部分も含めて紹介します!
『近所でも有名なガキ大将が土佐藩の重職に』
今回ご紹介するのは「後藤象二郎」(ごとう しょうじろう)

(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
大政奉還の実現に大きな役割を果たした土佐藩士・後藤象二郎は1838年天保9年3月19日、
上級武士の長男として高知城下に生まれました。幼名は保弥太(やすやた)。
1歳年上の盟友・板垣退助とは遠縁で幼馴染の間柄で互いの生家も150mほどしか離れておらず、
互いを「やす」・「いのす」と呼び合う近所でも有名なガキ大将コンビでした。

(板垣退助 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
後藤家は、大坂夏の陣で豊臣方として活躍した後藤又兵衛の遺児が土佐に落ち延びて、山内氏に仕えたことが興りともいわれています。象二郎はそんな後藤家の長男として生まれますが、11歳の頃父が病気で他界すると親戚に預けられ、やっかいもの扱いを受けていました。
そんな彼を引き取り、養育したのが土佐藩一の実力者だった遠い親戚の吉田東洋です。この象二郎という名前は山内容堂から「吉田東洋=二郎を象れ(かたどれ)<吉田東洋のようになれ>」と拝領したもの。本当の親子のように二人が深い絆で結ばれていたことがうかがえます。
ある日アメリカから帰国したジョン万次郎が吉田に家に招かれ、外国の情勢について話をしていた時、当時少年だった後藤象二郎も同席し、熱心に聞き入っていました。

(ジョン万次郎 こと 中濱万次郎 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
その姿に心を打たれた万次郎が、一枚しか残っていなかった世界地図を後藤にゆずってあげると、非常に喜んで数日間部屋にこもってその地図をずっと眺めていたそう。
外国事情にも目を向けて強い日本を作ろうとした後の後藤の思想はこういう環境の中で芽生えていったかもしれませんね。
20歳のころ、吉田東洋の推薦で土佐藩の役人になると順調に出世街道を歩み、様々な重要職を担当。
24歳の時に土佐勤王党による吉田東洋暗殺事件が起こると、後藤は職を解かれますが、翌年には「航海御用」を命じられ、航海術を学ぶために江戸へ。西洋学問の教育施設である開成所(かいせいじょ)・現在の東京大学で学び知識を深めていきました。

(出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
大政奉還の実現に大きな役割を果たした土佐藩士・後藤象二郎は1838年天保9年3月19日、
上級武士の長男として高知城下に生まれました。幼名は保弥太(やすやた)。
1歳年上の盟友・板垣退助とは遠縁で幼馴染の間柄で互いの生家も150mほどしか離れておらず、
互いを「やす」・「いのす」と呼び合う近所でも有名なガキ大将コンビでした。

(板垣退助 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
後藤家は、大坂夏の陣で豊臣方として活躍した後藤又兵衛の遺児が土佐に落ち延びて、山内氏に仕えたことが興りともいわれています。象二郎はそんな後藤家の長男として生まれますが、11歳の頃父が病気で他界すると親戚に預けられ、やっかいもの扱いを受けていました。
そんな彼を引き取り、養育したのが土佐藩一の実力者だった遠い親戚の吉田東洋です。この象二郎という名前は山内容堂から「吉田東洋=二郎を象れ(かたどれ)<吉田東洋のようになれ>」と拝領したもの。本当の親子のように二人が深い絆で結ばれていたことがうかがえます。
ある日アメリカから帰国したジョン万次郎が吉田に家に招かれ、外国の情勢について話をしていた時、当時少年だった後藤象二郎も同席し、熱心に聞き入っていました。

(ジョン万次郎 こと 中濱万次郎 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
その姿に心を打たれた万次郎が、一枚しか残っていなかった世界地図を後藤にゆずってあげると、非常に喜んで数日間部屋にこもってその地図をずっと眺めていたそう。
外国事情にも目を向けて強い日本を作ろうとした後の後藤の思想はこういう環境の中で芽生えていったかもしれませんね。
20歳のころ、吉田東洋の推薦で土佐藩の役人になると順調に出世街道を歩み、様々な重要職を担当。
24歳の時に土佐勤王党による吉田東洋暗殺事件が起こると、後藤は職を解かれますが、翌年には「航海御用」を命じられ、航海術を学ぶために江戸へ。西洋学問の教育施設である開成所(かいせいじょ)・現在の東京大学で学び知識を深めていきました。
『坂本龍馬も福沢諭吉も認めた人間力』
隠居生活を送っていた前土佐藩主・山内容堂が政治の世界に返り咲くと、後藤は再び土佐藩の要職に起用され、土佐勤王党弾圧の際にはその中心的な役割を果たし、容堂の厚い信頼を得ました。

(山内容堂 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
富国強兵策に力を入れた後藤は、藩の産業振興・国力強化の要となる「開成館」を高知市九反田に開設。長崎県には「土佐商会」も設立しました。
ですが後藤象二郎、かなり大雑把な性格で金遣いも荒かったそう。
経営には全く向いておらず、藩の財政は大赤字に。そんな状況を打開すべく長崎に呼び出し主任に抜擢したのが、3才年上の「岩崎弥太郎」でした。

(岩崎弥太郎 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
また長崎では「坂本龍馬」と「後藤象二郎」との運命の出会いもありました。
1867年1月に行った会談で意気投合。龍馬は兄・権平宛の手紙で「後藤象二郎は龍馬の第一の同志であり、天下の苦楽をともにしています」とべたぼめしています。
土佐藩の最高職に就いていた後藤は龍馬・中岡慎太郎の脱藩の罪を免じ、それぞれを土佐藩公認の組織「海援隊」と「陸援隊」の隊長に任命しています。
松平春嶽が徳川慶喜に差し出した大政奉還をすすめる意見書を下敷きに、龍馬が提唱した新しい国家の構想「船中八策」こと「新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)」は有名ですが、これを山内容堂に建白しようと進言したのが他ならぬ後藤象二郎です。
大政奉還の実現は、龍馬から提案された斬新なアイデアを取り入れる後藤の柔軟性、そして山内容堂から大きな信頼を勝ち得ていた政治力があったから、とも言えますよね。
大政奉還から30年後の1897年、後藤象二郎は59才で亡くなります。
細かいことは気にしない豪快な性格で、会う人は皆その魅力にとりつかれたそうです。
あの有名な福沢諭吉も「今の政治を変えられるのは後藤だけ。総理大臣になって欲しかった」と語っています。
実に太っ腹で快活、粋な人物、と言われる後藤ですが、妻の「雪子」によりますと、後藤が苦手だったのが「地震」。些細な揺れにもすぐに気付き、顔色をかえて外に飛び出しては、家の人に笑われていたそう。
なので決して2階建ての家では休まなかったそうです!
またお酒は一滴も飲まず、暇さえあれば字を書いていたようで、とても達筆だったそうですよ。
今回は「後藤象二郎」をご紹介しました。
📝執筆担当のあとがき📝
『後藤象二郎』皆さんご存知でしたか?
高知県民なら「名前は知っている」という人も多いと思いますが県外の人にはあまり馴染みの無い人物かもしれません。
しかし!!調べれば調べるほど魅力あふれる人だったことがうかがえます。
龍馬が提唱した新しい国家の構想「船中八策」を山内容堂に提唱しなければ、大政奉還はもしかしたらすんなりといかなかったかも?しれません。
また坂本龍馬や福沢諭吉からも非常に高い評価を受けていたことを知っている人も多くは無いのではないでしょうか。
また本人が大雑把な性格が岩崎弥太郎の起用につながったとも言えますよね。
知れば知るほどもっと知りたくなる不思議な魅力を持っている後藤象二郎。
今回、監修を協力してくれた高知城歴史博物館では、土佐藩の歴史について色々と勉強できるので、ぜひ足を運んでみて下さい!

(山内容堂 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
富国強兵策に力を入れた後藤は、藩の産業振興・国力強化の要となる「開成館」を高知市九反田に開設。長崎県には「土佐商会」も設立しました。
ですが後藤象二郎、かなり大雑把な性格で金遣いも荒かったそう。
経営には全く向いておらず、藩の財政は大赤字に。そんな状況を打開すべく長崎に呼び出し主任に抜擢したのが、3才年上の「岩崎弥太郎」でした。

(岩崎弥太郎 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
また長崎では「坂本龍馬」と「後藤象二郎」との運命の出会いもありました。
1867年1月に行った会談で意気投合。龍馬は兄・権平宛の手紙で「後藤象二郎は龍馬の第一の同志であり、天下の苦楽をともにしています」とべたぼめしています。
土佐藩の最高職に就いていた後藤は龍馬・中岡慎太郎の脱藩の罪を免じ、それぞれを土佐藩公認の組織「海援隊」と「陸援隊」の隊長に任命しています。
松平春嶽が徳川慶喜に差し出した大政奉還をすすめる意見書を下敷きに、龍馬が提唱した新しい国家の構想「船中八策」こと「新政府綱領八策(しんせいふこうりょうはっさく)」は有名ですが、これを山内容堂に建白しようと進言したのが他ならぬ後藤象二郎です。
大政奉還の実現は、龍馬から提案された斬新なアイデアを取り入れる後藤の柔軟性、そして山内容堂から大きな信頼を勝ち得ていた政治力があったから、とも言えますよね。
大政奉還から30年後の1897年、後藤象二郎は59才で亡くなります。
細かいことは気にしない豪快な性格で、会う人は皆その魅力にとりつかれたそうです。
あの有名な福沢諭吉も「今の政治を変えられるのは後藤だけ。総理大臣になって欲しかった」と語っています。
実に太っ腹で快活、粋な人物、と言われる後藤ですが、妻の「雪子」によりますと、後藤が苦手だったのが「地震」。些細な揺れにもすぐに気付き、顔色をかえて外に飛び出しては、家の人に笑われていたそう。
なので決して2階建ての家では休まなかったそうです!
またお酒は一滴も飲まず、暇さえあれば字を書いていたようで、とても達筆だったそうですよ。
今回は「後藤象二郎」をご紹介しました。
📝執筆担当のあとがき📝
『後藤象二郎』皆さんご存知でしたか?
高知県民なら「名前は知っている」という人も多いと思いますが県外の人にはあまり馴染みの無い人物かもしれません。
しかし!!調べれば調べるほど魅力あふれる人だったことがうかがえます。
龍馬が提唱した新しい国家の構想「船中八策」を山内容堂に提唱しなければ、大政奉還はもしかしたらすんなりといかなかったかも?しれません。
また坂本龍馬や福沢諭吉からも非常に高い評価を受けていたことを知っている人も多くは無いのではないでしょうか。
また本人が大雑把な性格が岩崎弥太郎の起用につながったとも言えますよね。
知れば知るほどもっと知りたくなる不思議な魅力を持っている後藤象二郎。
今回、監修を協力してくれた高知城歴史博物館では、土佐藩の歴史について色々と勉強できるので、ぜひ足を運んでみて下さい!
『RKCラジオ 歴史のなかの土佐人たちの特設サイトはこちら』
RKCのラジオ番組「歴史のなかの土佐人たち」の特設サイトもぜひご覧ください🔻

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